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たなか としゆき 田中稔之
1928年山口県に生まれる。1950年向井潤吉に師事、52年行動美術展初入選。1956年第1回アジア青年美術家展フライシュマン賞受賞。1958年行動美術賞を受賞、翌年同協会会員となる。1960年現代日本美術展出品、63年渡欧し、ウィリアム・ヘイターに版画を学ぶ。1964年モナコ国際ビエンナーレ出品、66年帰国。1970年代に入り、太陽のモチーフが画面に現れるようになる。1977年のモンゴル、シベリア旅行で宇宙や生命力といった人間の次元を越えたものと対局し、円の連作を始める。空間を色面で鋭く斬って生まれた大きな円空間は、瞑想的で東洋的な情感をかもしだしている。(「THE HIROSHIMA 広島市現代美術館所蔵作品による」図録 1991年)
カテゴリー:作家
紫派とは?【 美術用語 】 黒田清輝を中心として形成された明治期の洋画の傾向とその画家たちを指す。ラファエル・コランに学んで1893年帰国した黒田は、印象派の技法と伝統的な主題を折衷したサロン系の外光表現を日本に伝えたが、それまで日本の画壇は脂派と呼ばれる褐色を基調として明暗のコントラストを鳶色と黒で描いた暗く脂っぽい表現が主流となっていたため、黒田の明るく感覚的な外光描写は若い画家たちに清新な感動をもって迎えられた。黒田は久米桂一郎とともに天真動場、次いで白馬会を創立し、また東京美術学校教授として後進の指導にあたり、それらの活動を通じて外光描写は当時唯一の官展であった文部省美術展覧会(文展)の画風を支配するに至った。名称の起りは、陰の部分を青や紫で描いたことを、脂派に対して正岡子規が紫派と揶揄したことによる。ほかに脂派との対比から新派、南派、正則派とも呼ぶ。 |
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