![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
きゅうるーう゛るのしょうめんげんかん 旧ルーヴルの正面玄関
ノートルダム寺院と共にルーヴル宮殿は、パリの歴史的に最も重要な建築物である。その起源は、13世紀の初めにセーヌ川の川岸に建てられた要塞であった。その時から、絶え間なく少しずつ拡張されてきた。特に14世紀以来フランス各代の国王の住居となってからは、ルーヴル宮殿は18世紀まで常に建築中であった。また、アカデミー・フランセーズも宮殿の中にあり、数多くの芸術家がそこに住み、また、そこで働いていた。正面玄関は18世紀の終わり、多くのフランス人やイタリア人の建築家が参加したコンクールの後で建てられた。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
勝田蕉琴とは?【 作家名 】 1879年福島県に生まれる。本名良雄。はじめ会津若松の南画家野出蕉雨に学んだのち、1899年(明治32)上京、橋本雅邦に師事する。1902年に東京美術学校日本画選科に入学、1905年の卒業後、岡倉天心の推薦を受けて、タゴールの賓客としてインドに渡る。カルカッタ西北のシャンティニケトン学園で東洋画を教える一方、仏画の制作と仏教美術の研究をおこなった。1907年に帰国し、同年の第1回文展に初入選する。その後、国画玉成会にも参加する。1913年(大正2)の第7回文展で3等賞受賞、以後、官展を主な活躍の場とした。また1963年(昭和38)以降は、革新美術協会に出品した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||