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ぱりばすてぃーゆのながめ パリ、バスティーユの眺め
この有名な要塞は、14世紀にパリの東方入口の一つを守るためにつくられたものであった。この入口(ポルト・サニーアントワーヌ)が今この画面の右側の方に見えるので、これは16世紀に再建した後の状態のものである。最初は、軍の要塞であったが、16世紀には政治犯の牢獄となって、18世紀にはヴォルテール、マルモンテル、更にはサド侯爵が投獄されていた。1789年7月14日、パリ市民がバスティーユを王室権力の象徴として攻撃した。これを機にフランス革命が始まり、建物はほとんど破壊された。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
脂派とは?【 美術用語 】 一般に明治美術会系の画家の画面が脂っぽい印象を与えることから、世間がこの系統の作家と作品を揶揄して用いた名称。紫派と呼ばれる黒田清輝を中心として形成された外光派との対比で用いられた。ほかに旧派、北派、変則派とも呼ぶ。1893年ラファエル・コランにサロン風の外光描写を学んだ黒田が帰国するまで、日本の画家は外光描写を知らず褐色を基調として明暗のコントラストを鳶色あるいは黒で表現したため、画面は暗く脂っぽいものとならざるを得なかった。それに対して明るく感覚的な黒田の外光表現は清新な感動をもって若い画家に迎えられ、やがて当時唯一の官展であった文部省美術展(文展)の画風を支配していった。ジャーナリズムは両者の対立を脂派と紫派の抗争とあおったが脂派は画壇の片隅に追いやられていった。 |
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