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かいものがえりのおんな じゃんしめおんしゃるだんのげんがによる 買物帰りの女[ジャン=シメオン・シャルダンの原画による]
この版画はシャルダンの絵の複製で、1739年の年記、サイン入り。この《買物帰りの女》という題名は、1742年にアカデミーのレピシエ(1735−84)によって付けられた一番最初の版画にさかのぼり、《市場から肉とパンを持って帰ってきた、台所に居る料理女》による。フェルナン・デムーランは、ほんのりこげた粉で白くなっているパンの皮、肉屋の包んだ紙からはみ出ている骨、皮、股肉の腱、しろめ製の皿の輝き、木のテーブルの上に置いてあるポットの陶土の色、およびその上塗、二本の陶製の瓶の輝き、またはっきり照らし出された背景の通路の泉水の銅の輝き等、シャルダンが鮮明に描いた素材の効果を出すのに努力をした。非常に巧妙な構図を、アンドレ・マルローは、「シャルダンのこの無言の腕の冴えは、オランダ人の静物画を破壊し、彼の同時代人を装飾家にしてしまった。フランスでは、ヴァトーの死よりフランス革命まで何物も彼に対抗する事はできない。・・・」と書いている。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
土田麦僊とは?【 作家名 】 1887年新潟県に生まれる。本名金二。弟茂(つとむ)は後の思想家土田杏村で、国画創作協会の結成にも協力する。1903年(明治36)、僧になるため京都に出たが、画家を志して預けられた智積院から出奔、まず鈴木松年の門に入り、松岳と号した。しかし旧派の松年に飽き足らず、04年竹内栖鳳に入門して麦僊の号を受ける。翌年から新古美術品展に出品。08年の第2回文展で〈罰〉により3等賞を受賞。09年新設の京都市立絵画専門学校別科に入学、11年に卒業した。この間、黒猫会、仮面会を結成し展覧会を開いた。絵専卒業制作〈髪〉により第5回文展で褒状。中井宗太郎や雑誌「白樺」の影響で西洋美術に触れ、〈島の女〉(第6回文展)、〈海女〉(第7回文展)などを発表。1918年(大正7)には、竹喬、紫峰、華岳らと国画創作協会を結成、第1回展に〈湯女〉を出品。1921年竹喬、晩花らと渡欧、ルノワールの画室を訪門するなど西洋美術に直接触れ、23年帰国。翌24年第4回国展には〈舞妓林泉〉を出品。1928年(昭和3)の国画創作協会解散後は官展に復帰した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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