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むらのはなよめ じゃんばてぃすとぐるーずのげんがによる 村の花嫁[ジャン=バティスト・グルーズの原画による]
この版画の原画は、1761年のサロンに出品された作品で、グルーズの代表作の1点である。当時の目録には、「結婚:花嫁の父が、婿に持参金を渡す場面」とある。すぐにマリニィ侯爵がこの作品を入手し、彼が亡くなるとルイ15世によって王家のコレクションに繰り入れられ、現在ルーヴル美術館の所蔵となっている。この作品のテーマは、まさにグルーズらしい特色に満ちている。村の生活風景という風俗に取材した素材を、道徳的・教訓めいた意味づけで再構成したもので、当時流行しつつあった田舎風の純朴な道徳とルソー風の感傷趣味に合致するものであった。画家グルーズの的確な観察眼と確かな技量は、大変優れた描写の巧みさで生活の一断面を描き出し、その情景に込められた教訓をさらに説得力のあるものにしていた。こうした彼の作品はディドロによって「描かれた道徳」とまで讃えられ、芸術の目指すべきあり方とも受けとめられていたようである。ここでは、父親の謹厳さ、婿の真面目さ、花嫁の羞恥心、兄弟姉妹の心配りなど、描かれている人物やそのしぐさは幾重にも張り巡らされた意味に満ちている。当時の批評家の中には、座る母親の周りにいる子供たちの姿に注目し、雛に囲まれた雌鶏の姿と比較して、その象徴的な意味をくみ取ろうとしたものさえいたという。こうした作品の構図の巧みさと、細部にいたるまで緻密に描き込まれたリアルな描写が、教訓的な意味合いを重んじた画家の姿勢に結びついて、一種独特な物語的風俗画という絵画を生み出したのであった。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
三宅克己とは?【 作家名 】 1874年徳島県に生まれ、1954年に没した。旧徳島藩江戸留守居役だった父が、蜂須賀家の養育係となったため、6歳のとき家族で東京に移住。近所には、洋画家・高橋由一の画塾があり、絵に関心をもつようになったと言われている。大野(曽山)幸彦、原田直次郎に洋画を学ぶが、来日中のイギリス人画家ジョン・ヴァーリー(バーレイ)の水彩画に感動し、水彩画家を目指すようになった。1897年、アメリカに渡り、一時イェール大学付属美術学校でも学んでいる。翌年ロンドンに移り、フランスやベルギーを経て帰国。その後、日本各地はもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、中国へたびたび出かけ、風景画を描き続けた。1899年白馬会会員。同会の解散後は、光風会の創立に参加。1907年に文展(文部省美術展覧会)が開設されると、第一回展から出品し、以後、文展や帝展(帝国美術院美術展覧会)、新文展、戦後の日展で活躍。1915年の文展で2等賞(最高賞)を受賞。翌年から無鑑査となり、帝展、新文展では審査員もつとめた。水彩画を独立した洋画の一分野ととらえ、透明水彩の繊細な表現を追求するとともに、水彩画に関する著書を多数刊行するなど、水彩画の普及に尽力した。昭和初期には、写真に関する啓蒙書も執筆。晩年の1951年、日本芸術院恩賜賞を受賞している。 |
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