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きおすとうのぎゃくさつ うじぇーぬどらくろわのげんがによる キオス島の虐殺[ウジェーヌ・ドラクロワの原画による]
《ギリシア独立戦争のエピソード(1822)》または《死か隷属かを待つギリシア人の家族》と題するこの絵は、1824年のサロンに出品され、すぐにシャルル10世によって購入された。今日この絵は、ルーヴル美術館に保存されている。1884年にギュルミはルーヴル美術館の銅販画室におさめるためにこの原版を彫ったのである。ギリシアの不幸な人々はオスマン=トルコの支配下でロマン主義の人々のあわれみを称賛した。バイロンはギリシア独立のために戦ってミソロンギで1824年に死んだ。1821年以来ドラクロワは、「トルコとギリシアの最近の戦争」に題材を得る計画を始めていた。キオ、またはキオス島の恐ろしい大虐殺、これはトリポリッザの殺戮に対する返答であった。その殺戮はギリシア勤務のフランス将校、ブーチエ大佐によって起こされたものであったが、キオス島の虐殺はまさに芸術家にとっては「一大テーマ」であった。ドラクロワは叙事詩的なリアリズムの形式で描いている。東洋的感覚の彩色をした彼は、ヴィクトル・ユゴーの『東方詩集』が出版される5年前に、ギリシアという名前を聞いただけで、進歩主義的なすべての人の心が興奮のるつぼにある状態を東洋的に表現することを知っていた。この《キオス島の虐殺》について、テオフィル・ゴーチエは次のように書いている。「如何なるアカデミックな優しい配慮もこの忌まわしさをかくすことはできないほどの恐ろしい、醜悪なこの光景は、奇妙な果敢さによって若い画家たちの情熱をかき立て、何物も今まで感じさせたことのない新鮮さによって熱狂させた。」(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
戸張孤雁とは?【 作家名 】 1882年東京に生まれる。1901年洋画研究のため渡米し、06年に帰国する。1910年太平洋画会研究所彫塑部に入門し、同年第4回文展に「をなご」を出品する。1916年再興第3回院展に「ムスメ」「若き男の像」他を出品する。1917年には日本美術院同人となる。1927年東京で死去。アメリカで苦学をしながら、洋画、デッサンを学んでいた戸張は、ニューヨークのナショナル・アカデミーで荻原守衛と知り合ったことで、彫刻家への道を進むことになる。ロダンの作品からも多大な影響を受け、生命感にあふれた大胆なデフォルマシォンを特徴とする象徴性の高い作品を制作した。また版画家としても活躍し、1919年には山本鼎、織田一磨らと日本創作版画協会を創立し、「創作版画と版画のつくり方」を刊行した。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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