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こりーぬ ふらんそわじぇらーるのげんがによる コリーヌ[フランソワ・ジェラールの原画による]
コリーヌというのはジェルメーヌ・ド・スタール(1776−1817年)の小説の中の女主人公である。スタール夫人はフランスの作家であり、ルイ16世時代の大臣ネッケルの娘で、スウェーデン人のスタール男爵と結婚した。スイスに亡命し、ナポレオンからコッペの城に逃れた。彼女は文学に打ち込み、その作品はロマン主義の誕生に大きな影響を与えた。1807年に出版された小説『コリーヌあるいはイタリア』の中で、スタール夫人はイタリアの女流詩人の生活を語っていた。作中のこのイタリア女流詩人に、スタール夫人は古代ギリシアの最も有名な女流詩人の名前をつけた。ピンダールのライバルであるコリーヌは、イタリアの美しさと不要な愛とを歌っていた。アレクシス=フランソワ・ジラールは1822年のサロンに発表されたこの版画から、男爵ジェラールがプロシアのオーギュスト皇子から依頼された絵と同じように、コリーヌの姿を再生した。オーギュスト皇子は当時、ナポレオンの軍隊から逃れるためにコッペのスタール夫人の所に亡命していたのであった。女友達スタール夫人の死後、プロシアのフレデリックはジェラールに一種の寓意的肖像画を注文した。それはコリーヌの絵姿の中に、スタール夫人の面影をみとめるものであった。絵の中のコリーヌは、ミゼーヌ山の頂上に座っており、まわりは、ナポリ湾に臨んで、背後には、ベスビオス火山が独特なかたちであたりを圧している光景が描かれている。版画家ジラールは、1822年のサロンで展示されたこの原版の中から、女主人公だけしかとり出さなかったが、絵の中の彼女の残念そうな顔に注目して、コリーヌの苦悩と、彼女の愛の心を表現する詩句を愛する男性イギリス貴族のオズワルド・ネビユやそのほか幾人かの友人の前で歌うことをやめた時を表していた。実際には、版画家はここでは、その男たちの姿を描かなかった。プロシアのフレデリック卿は、1819年のサロンに展示されていたこの絵《ミゼーヌ山頂のコリーヌ》をレカミエ夫人に贈った。1805年にジェラールは、このレカミエ夫人の肖像画も描いている。レカミエ夫人はこのコリーヌの絵を、故郷のリヨン市に贈った。現在はリヨンの美術館に保存されている。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
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川端龍子とは?【 作家名 】 1885年和歌山県に生まれる。本名昇太郎。1895年(明治28)、一家で東京に転居する。1904年に白馬会洋画研究所で、6年には太平洋画会で洋画を学び、7年の東京勧業博覧会、第1回文展にそれぞれ入選し、翌年の第2回文展にも入選する。1913年(大正2)洋画研究のためにアメリカに留学するが、ボストン美術館等で東洋・日本の古美術に感銘を受け、半年の滞在ののち帰国、日本画に転向し、自然主義を標榜する平福百穂らの无声会に参加する。翌1914年東京大正展覧会で初の日本画入選。1915年には、平福百穂、小川芋銭らと珊瑚会を結成する。また同年の第2回再興院展に入選、第3回展で樗牛賞を受賞して院友となり、1917年の第4回展で同人に推挙された。以後、1928年(昭和3)に脱退するまで院展を活動の場とした。1929年に青龍社を創立、主宰する。1959年には文化功労者となり文化勲章を受章。その作品は、洋画研究の成果を反映させた力強い表現力と大胆でスケールの大きい画面構成を特色としている。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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