41〜45をふくむ6枚の
銅版画は、
ドラクロワの生前には未発表であった。美術史家で画家、彫版家でもあったフレデリック・ヴィヨ(1809−75)は、
ドラクロワとの共同制作も行ったことがあるほど
ドラクロワと親しかったが、この親友がこれらの未発表作品の銅版を保存していた。そして
ドラクロワの死後、1865年になって、これらの6枚が1セットとして発売された。このセットの表紙にも
ドラクロワの
銅版画が刷り込まれている。
ドラクロワが
エッチングによる彫版の技法を知ったのは、ヴィヨによるところが大きい。初期においては、この二人の共同作業によって版が制作されたこともしばしばである。しかし1832年以降の作品においては、
ドラクロワのみの手による彫版が行われるようになった。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)