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せなかをみせたおんな 背中を見せた女
41〜45をふくむ6枚の銅版画は、ドラクロワの生前には未発表であった。美術史家で画家、彫版家でもあったフレデリック・ヴィヨ(1809−75)は、ドラクロワとの共同制作も行ったことがあるほどドラクロワと親しかったが、この親友がこれらの未発表作品の銅版を保存していた。そしてドラクロワの死後、1865年になって、これらの6枚が1セットとして発売された。このセットの表紙にもドラクロワの銅版画が刷り込まれている。ドラクロワがエッチングによる彫版の技法を知ったのは、ヴィヨによるところが大きい。初期においては、この二人の共同作業によって版が制作されたこともしばしばである。しかし1832年以降の作品においては、ドラクロワのみの手による彫版が行われるようになった。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
木村立嶽とは?【 作家名 】 越中国富山(現富山市)に生まれる。幼名は専之助。前田藩の絵師に学んだ後、江戸に出て、木挽町狩野家の狩野栄信、養信、雅信に師事。雅経の号を狩野家から与えられ、万延年間の江戸城本丸御殿再建では、雅信のもとで障壁画などの制作にたずさわった。明治維新後は、御用絵師の身分をなくし生活に困窮。陶器画や漆器の下絵を描く。明治15年(1882)第一回内国絵画共進会で褒状を得、翌年フランスにおける第一回パリ日本美術縦覧会では大賞を受賞。明治17年(1884)の第二回内国絵画共進会でも褒状を受けるなど受賞を重ねた。また、鑑画会では、フェノロサの理論を試みた作品を発表している。 |
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