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あるじぇのゆだやじん たんじーるのゆだやじんはなよめ アルジェのユダヤ人(タンジールのユダヤ人花嫁)
ドラクロワは、1832年の前半にモルネー伯爵らの政府使節団の随員としてモロッコとアルジェリアへ旅した。この北アフリカ旅行が、彼の画業において非常に重要な意味をもったことは有名である。そこで出会った地中海の明るい光、そして異国の風物などは、その後のドラクロワの関心に大きな方向付けを与え、また旅行中の画帳を通して、個々の絵画の具体的なモチーフとして活用されていくのである。旅から戻った翌年、ドラクロワはエッチングの制作に再びとり組み、年内に10点ほどの版を制作した。本作は《オランのアラブ人》とともに、その中で最も重要な作品である。ドラクロワは北アフリカでモロッコのタンジールに滞在したおり、使節団の一員という特権もあり、ユダヤ人たちの住居に立ち入ることができた。彼はそこでユダヤ女性たちの姿を詳細な水彩画に描いており、それらが本作の源泉となっている(タイトルの「アルジェの」は誤称ということになる)。裕福な花嫁が召使いをともない、室内で椅子に掛けている。敷物においた彼女の裸足の形式張らないたたずまいと、重たそうな衣装や威厳のある態度とのコントラストが面白い。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
ダダとは?【 美術用語 】 第一次大戦中、ヨーロッパおよびアメリカに起った運動。1916年、チューリヒのキャバレ・ヴォルテールで、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプらが、辞典の一頁から偶然に拾った言葉「ダダ」を用いた。大戦の不安のなかで、合理主義文明とその社会体制を否定し、破壊しようという運動で、おびただしいデモンストレーションとスキャンダルを通じて「なにも意味しない」虚無のダダを唱えた。この否定の精神は、ドイツではヒュルゼンベック、グロスらにより政治的色彩を濃くした。またニューヨークでマルセル・デュシャン、ピカビアらが写真のコラージュや、レティ・メイドのオブジェを使った時期をニューヨーク・ダダと呼ぶが、デュシャンの芸術そのものへの否定精神(反芸術)は、第二次大戦後の若い作家に受け継がれた。さらに1919年にケルンでエルンスト、アルプらが起したダダ運動は、偶然性や意識下の世界を通じて、のちにシュルレアリスムや抽象表現主義への道をひらいた。 |
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