![]() |
|||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||
|
あるじぇのゆだやじん たんじーるのゆだやじんはなよめ アルジェのユダヤ人(タンジールのユダヤ人花嫁)
ドラクロワは、1832年の前半にモルネー伯爵らの政府使節団の随員としてモロッコとアルジェリアへ旅した。この北アフリカ旅行が、彼の画業において非常に重要な意味をもったことは有名である。そこで出会った地中海の明るい光、そして異国の風物などは、その後のドラクロワの関心に大きな方向付けを与え、また旅行中の画帳を通して、個々の絵画の具体的なモチーフとして活用されていくのである。旅から戻った翌年、ドラクロワはエッチングの制作に再びとり組み、年内に10点ほどの版を制作した。本作は《オランのアラブ人》とともに、その中で最も重要な作品である。ドラクロワは北アフリカでモロッコのタンジールに滞在したおり、使節団の一員という特権もあり、ユダヤ人たちの住居に立ち入ることができた。彼はそこでユダヤ女性たちの姿を詳細な水彩画に描いており、それらが本作の源泉となっている(タイトルの「アルジェの」は誤称ということになる)。裕福な花嫁が召使いをともない、室内で椅子に掛けている。敷物においた彼女の裸足の形式張らないたたずまいと、重たそうな衣装や威厳のある態度とのコントラストが面白い。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作品
荻原守衛とは?【 作家名 】 1879年長野県穂高町に生まれる。1910年没する。1899年画家を志し上京、小山正太郎の不同舎で学ぶ。1904年渡欧中にロダンの「考える人」に感動し、彫刻家を志す。1908年第2回文展で「文覚」が三等賞を受賞。1909年第3回文展で「北条虎吉氏肖像」が三等賞を受賞する。第4回文展で絶作「女」が三等賞受賞。守衛はロダンから、彫刻を量塊としてとらえ、その中に有機的な躍動感を盛り込むことで、彫刻が空間の中で息づくのだということを学んだ。そして守衛の存在はまた、日本近代彫刻の礎となっている。彼の作品に込められた内的な生命感は、彫刻の自立を促すものであり、「坑夫」「デスペア」などはいずれも、日本近代彫刻史を語るに不可欠な作品で、若くして去った守衛の代表作といえる。碌山と号す。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
||