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ふっど ふーど フッド/フード
この作品は、大部分が絵の具で覆われた新聞の切りぬきが再現されている。ここでは、絵の具は、リヒターが選び取った画像を読みとるための手助けをしている。画面の残りの部分を切り取ることなく、絵の具を介入させることで、画面右側のフード(頭巾)を被せられた人物は際だち、この孤独で不安な画面から引き起こされる感情の高まりを増長させている。この画面の外には、象徴的な意味でも、画中の人物の確実な死が待ち受けている。
カテゴリー:作品
山本鼎とは?【 作家名 】 1882年愛知県に生まれる。1906年東京美術学校西洋画科選科を卒業し、翌年石井柏亭、小林未星らと雑誌『方寸』を創刊する。1912年渡欧、1916年帰国、翌年日本美術院洋画部同人となる。1918年戸張孤雁と日本創作版画協会を創立して創作版画の発展につくし、翌年長野県小県郡神川村に日本農民美術研究所を設立。また自由画運動を推進するなど多方面に功積を残した。1920年日本美術院を脱退、翌年自由学園美術部教授となる。1922年春陽会創立に参加して会員となったが、1935年帝国美術院参与に推されて春陽会を脱会するが、1943年春陽会に復帰。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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