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まずしきしょくじ 貧しき食事
ピカソは、スペインでは版画のトレーニングを受けていない。彼の最初の版画は、ピカドール(馬に乗って牛を刺激する闘牛士)を描いた<左利きの男>(1989年)と言われている。この時ピカソは、版画というものが紙に転写した時にイメージが左右反転するということを、どうやら知らなかったらしい。意に反してそのピカドールは左手に槍を持つことになり、ピカソはタイトルを「左利き」とした。そんなピカソがパリに出て制作した<貧しき食事>(1904年)では、一挙に高い技術と完成度を見せている。貧乏だったピカソは、他人の使い古しの亜鉛板を用いたため、背景にうっすらと前の版画の風景のイメージが残っている。やせこけた盲目の男と彼によりそう女の前には、ワインの瓶と一切れのパン。お皿は空っぽ。貧困と孤独にある盲目の人、そして細長く引き伸ばされた人体は、社会の底辺であえぐ人々の絶望と希望への共感を青い絵の具で描いた「青の時代」の特徴を示している。シャープな線とコントラストの強い陰影表現が、緊張感あふれるドラマティックな画面を生み出している。男性が女性の方に手を回している様子は、女性を気遣っているようにも見えるが、顔はお互いに反対側に向いていて、実のところ心の中の距離は遠いのかもしれない。二人の腕が連結して生まれている循環は、頬杖をつく女性の左手で、むなしく宙に浮いている。その女性の視線もまた行き場を失ってあたりをさまよっている。男性の視線は画面の外に向かうが、その盲目の眼には何が映っているのだろうか。(「変貌するひとのすがた ピカソの版画」(コレクション+αで楽しむシリーズ) 2006年)
カテゴリー:作品
小川芋銭とは?【 作家名 】 1868年江戸赤坂溜池の牛久藩邸に、留守居役小川伝右衛門の長男として生まれる。幼名不動太郎、のち茂吉と改める。はじめ油彩画を本多錦吉郎に学ぶ。1888年(明治21)「朝野新聞」の客員となり、同紙に帝国議会開設のスケッチや漫画を発表した。この時から芋銭の号を用いはじめる。1893年廃藩置県で牛久に帰農していた一家のもとに帰り、農業に従事しながら制作を行った。「茨城日報」「いはらき新聞」に投稿、1911年小杉未醒と漫画展を開催した。1915年(大正4)平福百穂、川端龍子、森田恒友らと日本画研究団体、珊湖会を結成、1917年には日本美術院の同人となる。以後院展を中心に、沼畔や田園に題材を取った作品を発表した。明治後期に幸徳秋水などと交流し、平民主義の影響を受ける一方、老荘の思想に通じ、書や俳諧もよくした。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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