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たぶち としお 田渕俊夫
1941年東京都に生まれる。1967年東京芸術大学大学院修了、シェル美術賞展佳作賞受賞。1973、77年山種美術館賞展に出品し、79年洪水の脅威を静けさの中に暗示した《輪中の村》が第5回同展優秀賞を受賞。1968年院展に初入選し、以後同展に出品、82年第1回前田青邨賞、81年外務大臣賞、82、85年日本美術院賞と受賞を重ねる。1986年同人となる。1988年《緑風》が文部大臣賞受賞。透明な色彩と線描写によって、風景の一隅を静謐な叙情性でうたいあげている。(「THE HIROSHIMA 広島市現代美術館所蔵作品による」図録 1991年)
カテゴリー:作家
文展とは?【 美術用語 】 文部省美術展覧会の略。1907年6月、勅令によって美術審査委員会官制がしかれ、続いて美術展覧会規程が告示公布され、最初の官制による展覧会として同年以降毎年秋季に開催された。当初から審査員の選出で紛糾し、美術界を統合した形をとるために当時日本画壇に分立した諸団体と洋画、彫刻の新旧両派から選出した委員に学識経験者を配して均衡をとった。1919年文部大臣の管理下に帝国美術院が設けられ帝国美術院展覧会に改組されたが、在野有力作家の吸収を目的として、35年文相松田源治により帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展覧会として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。1937年からの文部省美術展覧会を新文展と呼ぶことがある。 |
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