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ふらんこのゆめとうそ(2てんぐみのうちI) フランコの夢と嘘(2点組のうちI)
1936年、スペイン共和国政府に対して、フランコ将軍率いる軍部の反乱が起こる。困窮する共和国政府を金銭的に支援するため、翌37年1月から6月にかけてピカソはこの版画を制作した。当初は各9つある区画を裁断して別々に販売する予定もあったが、結局裁断せず、ピカソの激しい怒りの詩を添えて出版される。この不気味で醜悪な主人公はフランコ将軍。牡牛はスペイン共和国政府であり、古典的な女性の胸像や太陽は真理と光を表している。シュルレアリスムの要素を多く含んだ怪物的な変身と激しいデフォルメによる強烈な表現である。太陽に挑む独裁者。惨殺された馬、叫び逃げまどう女や子供。その年、37年4月の古都ゲルニカ爆撃を予告するような断末魔の絵物語である。この版画を制作した1937年の1月、ピカソはこの年の5月末から11月末にかけてパリで開催される万国博覧会におけるスペイン館の壁画を依頼された。その後37年4月28日にゲルニカが爆撃を受け、ピカソは5月から6月にかけて、40枚以上の下絵を基に<ゲルニカ>を制作する。<フランコの夢と嘘>第一図の上方には[1937年1月8日]、第二図には同じく上方に[1月8日]、そして下部には[1937年1月9日から6月7日]の日付がある。この展覧会では、これらに関わる段階刷りもすべて出品しているが、第二図の第一ステートから第四ステートまでは[1937年1月9日]の日付のみであり、第五ステートになって[6月7日]の日付がはいっている。ドラ・マールの制作記録写真によると、<ゲルニカ>がほぼ完成したのが6月4日頃である。日付のみから考えると<フランコの夢と嘘>は1月に集中的に制作され、第二図については6月に入って<ゲルニカ>の完成直後に最終的に完成したと考えられる。この各コマに描かれたモチーフと、<ゲルニカ>のための下絵やモチーフは密接に関わっており、特に第2図の6コマから9コマは、直接的に<ゲルニカ>のモチーフにつながっている。(「変貌するひとのすがた ピカソの版画」(コレクション+αで楽しむシリーズ) 2006年)
カテゴリー:作品
エルンストとは?【 作家名 】 1891年ドイツに生まれる。1976年没する。ボン大学で哲学を学ぶ。1912年「ラインの表現主義者」展に出品。キュビスムや未来派の影響を受けた後、1919年アルプ等とケルンのダダ・グループを結成し、過去の名画の改作やコラージュなどを試みる。アンドレ・ブルトンの招きで1921年パリで個展、翌年パリに移り、シュルレアリスムの代表的画家として活躍。1925年フロッタージュ(あてこすり)の技法を発明し、〈博物誌〉を制作、その後油彩にも応用する。第2次大戦中ナチに追われ、1941年ニューヨークに移る。オシログラフ(振動描画)の技法は、アクション・ペインティングの先駆けとなった。1929年に〈百頭女〉、1934年に〈慈善週間〉、などのコラージュ小説を刊行。タブローの他、版画や本の挿絵も精力的に手掛け、アメリカでは多くの彫刻を制作した。1954年ベネチア・ビエンナーレ展で、絵画部門の大賞を得た。1958年フランスに帰化した。(「なぜか気になる人間像 徳島県立近代美術館所蔵名品展」図録(埼玉県立近代美術館)1992年) |
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