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おんなのきょうぞう 女の胸像
ピカソは、1944年頃に恋人のマリー=テレーズ、そしてドラ・マールとついに別れた。次の恋人はフランソワーズだったが、彼女も53年にピカソのもとを去る。その少し前に南仏ヴァロリスの陶芸工房で出会ったのがジャクリーヌである。彼女はその工房で店員をしていた。54年から2人は共に住むようになり、55年に正妻のオルガが亡くなると、61年に結婚する。この作品はジャクリーヌをモデルにしている。堅実で献身的にピカソにつくし、妻として晩年のピカソを支えた女性である。恋人であり妻にもなったジャクリーヌは、画家ピカソにとって第一のモデルだったのに違いない。ギリシャ彫刻のような彫りの深い顔立ち、額から長く伸びた鼻、アーモンド形の瞳、濃くて長い眉毛。この作品にも、彼女の顔の特徴がよく表れている。制作された55年にルイーズ・レイリス画廊より販売された。刷りはラクリエール工房。(「変貌するひとのすがた ピカソの版画」(コレクション+αで楽しむシリーズ)図録 2006年)
カテゴリー:作品
クリムトとは?【 作家名 】 1862年ウィーンに生まれる。1876年に奨学金を得てオーストリア芸術産業美術館付属の工芸学校に入学、7年間同校に学ぶ。1883年、弟エルンスト、同窓のF.マッチュと共に美術家協会を設立し、ブルク劇場やウィーン美術史美術館など多くの装飾画を手掛ける。この時期の作品はいまだアカデミックな画風で描かれており、ブルク劇場のフレスコ画の制作によって勲章を授けられたが、1897年にウィーン分離派を結成し、その初代会長となると、アール・ヌーヴォー様式を大幅に取り入れた独自の様式を成熟させていった。1903年にはウィーン工房の設立に協力し、翌年、ブリュッセルのストックレー邸の食堂のためにモザイクのフリーズを制作し始める。この間、ウィーン大学の壁画やマックス・クリンガー展のための《ベートーヴェン・フリーズ》が賛否の渦を巻き起こす。1905年分離派を脱退し、翌年オーストリア美術家連盟を結成、1908年の「クンストシャウ」に出品した《接吻》が国家買上げとなる。第9回ベネチア・ビエンナーレ(1910年)で「クリムトの部屋」が設けられたり、1911年のローマ国際美術展で最優秀賞を獲得したりするなど、ヨーロッパ美術界で重きをなしていった。1917年、ウィーンとミュンヒェンの造形芸術アカデミーがクリムトを名誉会員に迎る。1918年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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