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<めたもるふぉーず> 3にんのおとこのあたま <メタモルフォーズ> 三人の男の頭
古代ローマの詩人オウィディウスが、「変身」という主題でギリシャ・ローマ神話を集大成した傑作『変身物語』に寄せた30点の銅版画による挿絵本。ピカソの新古典主義時代の代表的な版画集である。ピカソは油彩画では、1925年頃から人体が激しく歪形(デフォルメ)し痙攣しながら変容するような人体をえがき、作風が大きく展開していた。しかし、この<メタモルフォーズ>では、ピカソはいまだに、油彩画において10年前に使っていた古典的な手法を維持した。キュビスムによって獲得した複数の視点の導入が見られる<頭>(出品番号06-05)のような例外はあるものの、全体として銅版画の技法に精通した端正でやわらかい線により、優雅でおおらかな画面が展開されている。キュビスム時代の挿絵では、場面の説明的な要素は乏しかったのだが、ここではピカソは場面に即して描いている。しかし変身がテーマであるにもかかわらず、ピカソは登場人物が本当に何か別のものに変化する場面は描いていない。神々の王、全能の神、ジュピター(ゼウス)とセレメの道ならぬ悲恋の物語には特にひかれたのだろうか、「ジュピターとセメレの愛」(出品番号06-06)では、完成までに5枚の異なった試作を行っている。嫉妬に駆られたジュピターのお后ユノーが、たくらみを巡らして、最後はジュピター自身がセメレを焼き殺すようにしむけるために、セメレの乳母ベロエに変身するというストーリーなのだが、ピカソはこの変身の場面ではなく、ジュピターとセメレの愛の時間を場面に選んでいる。ピカソにはロシア・バレエ団の元ダンサーであった妻オルガがいたが、ちょうどこのころ、若き恋人マリー=テレーズともつきあいがあった。ここにはピカソの私的な生活が反映しているのかもしれない。なお、この兵庫県立美術館が所蔵する<メタモルフォーズ>には、表紙や奥付に三点のデッサンが描かれている。挿絵と共通するのびやかで生き生きした簡潔な線描で男女の顔が描かれており、必見である。(「変貌するひとのすがた ピカソの版画」(コレクション+αで楽しむシリーズ) 2006年)
カテゴリー:作品
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モルとは?【 作家名 】 1880年から1981年、ウィーン美術アカデミーでクリスティアン・グリーペンケールとエミール・ヤコブ・シンドラーに師事。1894年、キュンストラーハウス幹部。1897年頃、グスタフ・クリムトと友人になる。ウィーン分離派設立の話し合いが「カタコンベ(地下の墓所)」で行われる。同年、彼は設立メンバーとなる。分離派で開催される国外芸術家の殆んどの展覧会のオーガナイザーとなる。1898年から1905年、同展覧会に貢献。1898年から1901年、「ヴェル・サクルム」にも作品を提供。この頃に、彼の色石版画の殆んどの作品が制作され、その多くが「ヴェル・サクルム」に掲載されている。1900年、パリ万国博覧会に参加、「メゾン・モデルネ」を知る。数回の大規模美術展開催。1904年、ミートケ画廊の管理を引き受け、このことがウィーン分離派内の争いを深めることになる。1905年、クリムト・グループと共に分離派を脱退。1904年から1905年、ヨーゼフ・ホフマンとアルフォンス・ストックレーの間を取り持つ。1908年、クンストシャウの特別委員会で、1902年作の木版画シリーズ「ベートーヴェンの家」が展示され、その後1908年にウィーン工房から出版される。1909年、クンストシャウに参加。彼の家は、ウィーン社交界の中心であった。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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