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かるめん(1) カルメン(1)
第二次世界大戦も終わり、落ち着きを取り戻し始めていた1948から49年頃、ピカソは集中的に書物の仕事を行っている。代表的なものは、ピカソの友人でシュルレアリスムとも深い関係のあった前衛詩人ピエール・ルヴェルディの詩への挿絵<死者たちの歌>(1948年刊)、16世紀スペインの詩人ルイス・デ・ゴンゴラの<20の詩>(1948年刊)、そして19世紀の文筆家プロスペール・メリメの作で、同じ19世紀フランスのロマン主義の作曲家ジョルジュ・ビゼーのオペラでも有名な<カルメン>である。出版はビブリオテーク・フランセーズ(1949年刊)、刷りはラクリエール工房。38点の大部分がビュランによる銅版画であり、特装版には4点のアクアチントがついている(今回の出品作は普及版)。制作は1948年5月から11月にわたっているが、大部分が5月6日、30日に作られており、相当の集中力とスピードで制作された。非常に簡潔な線描で女性、男性、そして牛の顔が描かれている。古典的なものやキュビスム風、単純化されたイラスト的なものなど、バラエティに富んだ顔たちが生まれている。ピカソのグラフィカルな資質が軽やかに表れた、愉快でユーモアも感じる作品集である。(「変貌するひとのすがた ピカソの版画」(コレクション+αで楽しむシリーズ)図録 2006年)
カテゴリー:作品
幸野楳嶺とは?【 作家名 】 京都に生まれる。名は直豊、字は思順、幼名角三郎。旧姓は安田。父の実家の姓を名のる。はじめ円山派の中島来章に師事するが、明治4年(1871)師の許しを得て、四条派の塩川文麟につく。明治10年(1877)文麟の没後は、四条派を率いた。京都府画学校設立の建議書を知事に提出。明治13年(1880)の同校創立に際して、北宗科出仕となるが、翌年退職し私塾を開く。第一回内国絵画共進会で褒状を、第二回展で銀章を得たのをはじめ、パリ万国博覧会やシカゴ万国博覧会などに出品。また、京都青年絵画研究会、京都美術協会の設立に尽力。京都府画学校の校制改革で再就任し、同校教授、教頭となつた。明治26年(1893)帝室技芸員。菊池芳文、竹内栖鳳、都路華香、谷口香●(こうきょう)、上村松園などを育てた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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