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あき 秋
19世紀後半に日本を訪れた西洋人画家は何人かいるが、その中でもレガメーは1873年という早い時期に訪日しており、フランスに帰って日本に関する知識を広めた。美術品収集家のエミール・ギメの日本旅行に同行したのがきっかけであったが、彼が旅行中に描いたスケッチは帰国後『日本散策』として出版された。それらはジャポネズリーの特徴らしく、様式的な日本美術の影響を受けていないが、日本人や風俗をテーマに描いたものだった。本図はおそらく春夏秋冬の4図からなるカレンダーの下絵で、そのうち《春》もジマーリ美術館に所蔵されている。その《春》では日本女性が桜の木の前で掛け軸を掲げているが、本図《秋》では良く似た女性が提灯を掲げて紅葉の前に立っている。浮世絵の美人画の伝統を西洋人画家が解釈した比較的早い例と言えよう。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
横山大観とは?【 作家名 】 1868年、常陸国(ひたちのくに、現・茨城県)に生まれる。1958年没する。幼名秀蔵、秀松、のちに秀麿。旧姓は酒井。結城正明に学んだ後、東京美術学校(現・東京藝術大学)に1期生として入学。橋本雅邦、岡倉天心の指導を受ける。卒業後、東京美術学校助教授となるが、天心に殉じて辞職し、日本美術院の創立に参加。正員、評議員となる。美術院の茨城県五浦への移転を経て、文展(文部省美術展覧会)が開催されると審査員もつとめた。天心の没後は、文展を離れ、日本美術院を再興。一貫して指導的立場にあった。帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員などを歴任し、第1回文化勲章を受章。近代の日本画を代表する画家といえる。 |
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