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にほんのこどものうた 日本の子供の歌
ハイドはアメリカにいた頃から子供の絵本の挿絵画家を志したが、商業的には成功しなかった。この日本の童謡を集めた楽譜帳も結局出版されずに終わったが、姉のメイベルが訳した楽譜の横にそれぞれの歌詞の内容に合った挿絵をつけた、大変意欲的な作品である。明治時代には、西洋文化の流入で日本の音楽の多くが西洋の楽譜法で書き換えられるようになったが、ハイドの楽譜帳はまさにその日本音楽の転換期を記した貴重な資料でもある。内容的にも、童謡だけでなく、君が代や昭憲皇太后作詞の金剛石の歌までも取り上げている点で、ハイドが目の当たりにした日本の近代国家への急速な歩みが示されている。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
キルヒナーとは?【 作家名 】 ウィーンでエレガントな有閑マダムや高級娼婦を描く絵描きとして出発、その後、1900年頃にパリへ移住、肖像画家として活動するほか、雑誌(特に「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」)や単行本の挿絵を描いた。一時ロンドンにも滞在し、そこで「ザ・スケッチ」の挿画を描いていた。世界大戦勃発後、彼はニューヨークへ行き、主に女性を描く肖像画家として活動した。キルヒナーが知られているのは、サロン、バー、ナイトカフェなどにたむろして、一種エロティックな仕草をしたがる刺激的な女性たちの絵描きとしてであり(「玩具」、「サルタンの妃」、「青春」、「引っ張られるアモール」)、また、‘キルヒナー・ガール’の呼び名でポピュラーになったモンマルトルのやくざ女の代弁者としてである。1904年、彼はミュンヒェン水晶宮の展覧会に「ウェスタの処女」を出品した。フランス美術協会のパリ展には、1906年、婦人肖像画、1913年、「釈放」、1914年、「御託宣」を出品した。また、パリのユーモリスト展にも多数の水彩画を出品した。彼の水彩画のカラー複製は、特にマックス・ヘルツベルク書店(ウィーン)から出版されている。 |
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