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にほんのふうけい 日本の風景
スペイン時代からパリに移ってしばらくの間、グリスはもっぱら諷刺画家として活躍していた。キュビスム時代の友人たちの多くが語っているように、彼は陽気な性格に諷刺的なブラック・ユーモアを併せ持った個性的な人物であったらしい。この作品がどの雑誌に掲載されたのかは知られていないが、白で線の訂正がされていることからみても、実際に挿絵として使われた可能性が高い。西洋では近代以降、「切腹」が「ハラキリ」として、日本人の野蛮なイメージや侍の道徳の不可解さを強調するのに、度々取り上げられたが、この素描はそれをさらに劇的に誇張して表現している。侍であるはずの男が西洋の正装をしているのはおかしいが、何か特別な意味が込められていたのかも知れない。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
満谷国四郎とは?【 作家名 】 岡山県総社市に生まれる。明治24年(1891)中学校を中退し画家を志し上京。五性田芳柳に師事。翌年小山正太郎の不同舎に移る。明治29年に明治美術会展に出品した「林大尉の戦死」、同31年に出品した「尾道港」がともに宮内庁に買上げられ一躍有名となった。明治33年鹿子木孟郎、丸山晩霞らと米国経由で翌年欧州に渡る。パリでジャン・ポール・ローランスに師事、同34年に帰国。明治美術会解散のあと明治35年には吉田博、中川八郎、大下藤次郎らと太平洋画会を結成。明治40年東京府勧業博覧会美術展で「かりそめのなやみ」が一等賞を受ける。この年より文展の開催に際して、審査員として出品する。明治44年再度渡欧する。大正3年(1914)に帰国、ルノアール、セザンヌの影響を受け、画風が客観性に根ざした主観的表現へと大きくる変化、色彩も明るくなる。そしてさらに晩年は単純化と東洋的な装飾性を盛り込んだ独自の作風を築き上げた。大正14年には帝国美術院会員となった。(「東四国阿波讃岐風景画展」図録 1993年) |
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