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ものぐらむずあん モノグラム図案
モノグラムはジャポニスムのごく一要素に過ぎないが、装飾美術などへの影響を語る上で不可欠である。西洋のアルファベットを使ったモノグラムや、具体的なモティーフの入った家紋などと比べて、日本美術に見られる落款や着物などに見られる家紋は、極度に抽象され、グラフィック・デザインとして優れていると見なされた。アンリ・リヴィエール、ジョルジュ・オリオール等、多くのジャポニストたちが自らのイニシャルやトレード・マークのモティーフを抽象化したモノグラムをデザインし、版画作品などに多く使用しているが、シャデルもその一人である。シャデルは版画家としての仕事の他に、20年以上ものジュエリー・デザイナーとしての仕事がある。このアルバムには、様々な昆虫の甲羅の幾何学模様等をモノグラムへ抽象化していく過程が記されており、アーティストが自然のどのような要素をグラフィック・デザインへ取り入れていくのかが垣間見れて興味深い。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
安田靫彦とは?【 作家名 】 1884年東京都に生まれる。江戸時代から続く料亭「百尺」の三代目安田松五郎の四男。本名新三郎。1898年(明治31年)に土佐派の伝統を継ぐ大和絵の小堀鞆音に師事する。同年第1回日本美術院展に出品、また同門の磯田長秋らと紫紅会を結成する。翌99年第7回日本絵画協進会に出品し、褒状2等を受賞、翌年の第8回展でも同賞を受ける。1900年、紫紅会を紅児会と改称、以後、同会を中心に研鑽をつむほか、師鞆音が主唱する歴史風俗画会に参加して故事と古美術研究を深め、日本美術院にも出品する。1907年、国画玉成会の創立に参加するほか、東京勧業博覧会と第1回文展に出品してそれぞれ受賞。画壇で認められるようになり、岡倉天心の知遇を得る。1913年(大正2)紅児会が解散し、天心が没したのちは、翌年の日本美術院再興に参画し同人となる。以後再興院展を主な活躍の場とした。1934年(昭和9)帝室技芸員、翌年帝国美術院会員、44年から51年まで東京芸術大学教授をつとめた。1948年には文化勲章を受賞した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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