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しゅうかくするふたりのおんな 収穫する二人の女
1893年の「広重と歌麿」展を見た際、ピサロは「モネとロダンと私はこの展覧会にすっかり感激している。私は自分の描いた雪や水の効果に満足している。というのも、これら日本の芸術家によって、我々の視覚上の信念が再確認されるからだ」と息子への手紙に記した。ピサロの作品全般において日本美術の影響はそれほど顕著でないが、彼の浮世絵との出会いはドガ等を通して早くから始まっており、高い視点の設定や人物に焦点を当てて、周辺を省略するなどの手法は70年代から見られる。この作品でも1895年の木版画集『野良仕事』に見られるような、縦長の形式や高い水平線、人物を画面の端で切り取るなどの、浮世絵に共通した特徴が認められる。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
藤島武二とは?【 作家名 】 鹿児島県鹿児島市に生まれる。初めは日本画を志し郷里で修業。上京し明治18年(1885)川端玉章に入門する。しかし明治23年洋画に転じ、同郷の曽山幸彦の指導をうけ翌年には明治美術会の会員になる。その後山本芳翠らに学び、明治29年黒田清輝らの白馬会の結城に参加する。同年東京美術学校洋画科の助教授となる。黒田からは外光派描写の影響を受けるが、生来の浪漫的、装飾的な変質は変わらなかった。明治38年文部省の命で43年まで渡欧しアカデミズムを学び、帰国後は東京美術学校教授となる。その後は官展を中心に我が国洋画画壇の指導的な役割を担った。作風は帰国後の模索の時代を経て、東洋的な人物画を描く。大正8年(1919)帝展審査員、同13年には帝国美術院会員となる。昭和に入って3年(1928)には皇室から委嘱のあった作品の題材を求めて、日本各地は言うに及ばす、台湾、蒙古、満州と取材旅行して数々の風景を描いた。昭和9年には帝室技芸員、同12年には第1回の文化勲章を受章した。 |
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