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しらい うざん 白井雨山
1864年愛媛県宇和島に生まれる。1893年東京美術学校彫刻科の第1回生として卒業。卒業後も母校で後進の指導にあたるとともに、新しく塑造科を設置することに尽力した。1905年東京彫工会で金賞受賞。1907年東京勧業博覧会では一等賞を受賞、以後、文展、帝展の審査員をつとめるようになる。第2回文展審査員としての出品作である「箭調べ」は、その主題がきわめて東洋的なものであるのに対して、男性の裸像という器が西洋古典彫刻に依拠するものである取り合わせが、当時の彫刻界の様子を窺わせる重要な作品である。1928年死去。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)
カテゴリー:作家
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帝展とは?【 美術用語 】 文部大臣の管理下に設けられた帝国美術院によって、1919年から35年まで開催された美術展覧会。1907年から文部省美術展覧会(文展)が開かれたが、次第に二科会、日本美術院、国画創作協会など在野の有力団体の活動が活発化したのに対して、文展にはアカデミズムの弊害が目立つようになった。その対応策として文展創設以来審査にあたってきた老練作家を帝国美術院会員とし、比較的若い世代を審査員に起用することで今までの文展に活気を吹き込もうとした。この改革は一定の成果をあげたが、1935年在野有力作家の吸収を目的として文相松田源治によって帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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