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きたむらしかい 北村四海
1871年長野市の宮彫師の家に生まれる。幼少のころより父の仕事をまのあたりにしていたため、彫刻を志すに十分な素地があった。1893年上京、島村俊明に象牙彫刻を、小倉惣次郎に大理石彫刻を学ぶ。後に渡仏するが、病を得て帰国後は、大理石彫刻の日本における先駆者として活躍した。1907年の東京勧業博覧会において、審査に対する不満から、自らの作品を打ち壊したというエピソードは有名である。1908年第2回文展で「春秋」が三等賞を受賞、15年第9回文展で「イヴ」が三等賞を受賞する。1927年死去。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)
カテゴリー:作家
マティスとは?【 作家名 】 1869年フランスに生まれる。1954年没する。はじめは法律を学ぶが、まもなく画家を志す。22歳からパリでギュスターヴ・モローの指導を受け始める。この頃、ルオー、マルケ、ピサロらと知り合う。また、ルーヴル美術館で名作の模写を多数行う。1903年のサロン・ドトンヌ設立に参加する。1905年の同展では、ドラン、ヴラマンク、ルオーらと共に、その大胆な色彩と激しい筆致が注目を集め、半ば嘲笑を込めて「フォーヴ」と呼ばれた。1909年にロシアのシチューキン家のために大作〈ダンス〉を、また32年にはアメリカのバーンズ財団のために壁画〈ダンス〉を制作するなど、各地で活躍する。また1921年からは、パリとニースを往復する生活を送る。1940年のパリ陥落の後、ブラジルの渡航を試みるものの南仏に留まる。戦後も、切り絵、挿絵本、タピスリーなど幅広い活動を続け、特に南仏ヴァンスの礼拝堂の装飾は、彼の才能の集大成と言われる。20世紀美術においてピカソと匹敵する成果を残した一人といえるだろう。 |
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