ぐるぐるアートワード
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ぐるぐるもくじ


アラベーラ・ボルトンの肖像



あらゆる試練に耐えて



アララットの船あるいは空の蜜



有元利夫



有山白崖



ある音楽家のための楽譜(徳島会場不出品)



ある種の関係



アルジェのユダヤ人(タンジールのユダヤ人花嫁)



アルジャントゥイユからサノワへの道



ある彫刻家の顔



アルテンシュタイン



アルテンベルク



アルデイア通り



アルトゥール・レスラーの肖像



〈アルトーは兵士たちの前で語る〉



アルハンブラ−ヌイイの祭り



〈ある場面の再現〉



アルバース



Alphabet Skin



アルプ


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 作家(1701)

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あさくら ふみお

朝倉文夫

1883年大分県大野郡・渡辺家に生まれ、9歳のときに朝倉家の養子となる。1902年竹田中学校を中退し、実兄渡辺長男をたよって上京する。1907年東京美術学校彫刻選科を卒業、翌年第2回文展出品作「闇」で二等賞を受賞し、以後文展で7回連続受賞。1921年東京美術学校教授となる。1944年東京美術学校教授を退官し、帝室技芸員となる。1948年文化勲章受章。1951年文化功労者に選ばれる。1964年死去。朝倉は美術学校を卒業するやいなや、文展でいきなり二等賞を受賞し、その後も相次いで二等、三等賞を受賞するなど華々しい作家活動をし、時には嫉妬心の矛先をむけられた。「墓守」は彼の自然主義的な作風をよく示す作品で、東京谷中にある天王寺墓地の墓守で、彼が美術学校へ通うころから毎日のようにみかけていた老人をモデルにしている。「作品は自然の一部であればよい」といった朝倉の一つの節目となった作品である。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)


カテゴリー:作家
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デ・スティルとは?【 美術用語 】

1917年、テオ・ファン・ドゥースブルフが、モンドリアンの協力を得て、レイデンで創刊し、1928年まで編集にあたったオランダの美術雑誌名。デ・スティルは「様式」の意味。最終号は1932年、ドゥースブルフ夫人が亡夫を記念して発行した「ドゥースブルフ追悼号」(通巻90号)。この雑誌は初めはモンドリアン新造形主義の原理をもっぱら扱っていたが、ドゥースブルフが執筆陣にダダイストやクプカを迎え内容が包括的になったことからモンドリアンは寄稿をやめ、1926年以降は造形されたものの効果や具体性を重視するエレメンタリズムが中心となった。このような経緯があるにせよ、両大戦の間で最も大きな影響を与えた雑誌である。また、デ・スティルの名称は、この雑誌に関係した芸術家、建築家のグループをも指し、彼らが始めた建築様式上の運動にも用いる。それは、キュビスムの影響を受け直角と滑らかな平面の組合せよりなる抽象形態と、色彩は原色と白、黒、灰のみを使用した純粋な抽象的造形を意図したものであった。

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