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げいじゅつのにほんし No.25 ひょうし 『芸術の日本』誌(No.25)表紙
サミュエル・ビングは19世紀後半のヨーロッパにおいて有数の日本美術収集家であり、美術商でもあった。アカデミズムで行き詰まったヨーロッパ美術の復興に日本美術が鍵となると信じた彼は、その熱意を日本美術の展覧会や『芸術の日本』誌の刊行に注いだ。第1号の序文からはビングの確信と熱意が伝わってくる。「日本の芸術は、あさはかで熱狂的な気まぐれとは関係なく、今後わが国の芸術と永遠に結び付いていくだろう。それは、一滴の血として我々の血と混じり、どのような力ももはやこれを取り除くことはできないだろう」。全部で36号刊行されたこの月刊誌には、日本美術の専門家の論文や浮世絵などから抜粋した挿絵が多く掲載され、全カラーのジロッタージュ・プリントで刷られた日本美術の複製が10枚も付録として含まれていた。英語とドイツ語でも出版され、西洋における日本美術の知識の普及に大きな役割を果たした。(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作品
シニャックとは?【 作家名 】 新印象主義の代表的な理論家シニャックは全くの独学で画家となっている。1880年代には、印象派のモネ、シスレー、ルノワール、ギョーマンらの影響を受けていたが、1884年にスーラの作品を見、さらに1885年にカミーユ・ピサロと息子のリュシアンに出会ってから、本格的に点描法を取り入れ、色彩論を学び始めた。ルイ・ゴンスがジョルジュ・プティ画廊で1883年に開いた日本美術回顧展やパリで開かれたその他の日本美術の展覧会(たとえば1883年と1884年の装飾美術中央連合での日本画家年次展を確かに観ているにもかかわらず、彼の作品にジャポニスムの影響が現れたのは1885年から1886年頃である。ピサロ父子やスーラ(スーラは1885年頃から日本美術の影響を受けている)や、1887年にパリで出会ったゴッホとの親交によって、彼の極東への関心は高まっていった。1885年に版画を始め、まずエッチングの制作を試み、ついで1888年に、新印象主義色彩論を取り入れた多色刷石版画を制作した。彼は浮世絵版画に見られるような大気の明るさと色彩効果を版画に表現しようとした。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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