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きたむらせいぼう 北村西望
1884年長崎県に生まれる。京都市立美術工芸学校彫刻家に学ぶ。当時の同級に建畠大夢がいた。1907年同校を首席で卒業した北村は、建畠とともに東京美術学校彫刻科塑造部に再入学して白井雨山に師事した。当時より、北村の持ち味は勇壮な男性像に活かされて、繊細な感情表現を女性像に託することを得意とした建畠とは好対照であった。1915年第9回文展で「怒涛」が二等賞を受賞。1916年第10回文展で「晩鐘」が特選。1947年に日本芸術院会員となる。1955年、郷里の長崎市からの依頼で、高さ9メートルの大作「平和祈念像」を完成させた。1958年文化勲章を受章。1987年死去。本県で展覧された「将軍の孫」は、長男をモデルに制作した、彼の作風とは幾分趣の異なる愛らしい作品である。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)
カテゴリー:作家
ドクメンタとは?【 美術用語 】 1955年以来、西ドイツのカッセル市で、原則として4年ごとに催されてきた進歩的傾向の国際美術展の名前。第1回展は、カッセル・アカデミーのボーデ教授の提唱で、第二次大戦終了までナチスによって進歩的・前衛的芸術が「退廃」の烙印を押されて国際舞台から著しく立ち遅れてしまっていたドイツの芸術に、再び新しい息吹きを取り戻す目的で組織された。以降、ドイツの国民に世界の現代美術の動向を紹介するのを根本とし、多くの国際美術展のような授賞制度を持たずに、毎回テーマを決め、それに基いて委員会が美術家の人選を行うという方法を採っている。第2回展にはアメリカ部門が設けられ、ニューヨーク派の成果が紹介され、第4回展では、出品作家の3分の1がアメリカ人でその作品の多くが巨大なサイズのものという、アメリカの色面抽象絵画、ポップ・アート、ミニマル・アートが支配的なもので、ドクメンタの歴史にひとつの頂点を画したものであった。画商界の動向への追随など批判も多いが、現行の国際美術展では最も規模の大きいものである。 |
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