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きたむらせいぼう 北村西望
1884年長崎県に生まれる。京都市立美術工芸学校彫刻家に学ぶ。当時の同級に建畠大夢がいた。1907年同校を首席で卒業した北村は、建畠とともに東京美術学校彫刻科塑造部に再入学して白井雨山に師事した。当時より、北村の持ち味は勇壮な男性像に活かされて、繊細な感情表現を女性像に託することを得意とした建畠とは好対照であった。1915年第9回文展で「怒涛」が二等賞を受賞。1916年第10回文展で「晩鐘」が特選。1947年に日本芸術院会員となる。1955年、郷里の長崎市からの依頼で、高さ9メートルの大作「平和祈念像」を完成させた。1958年文化勲章を受章。1987年死去。本県で展覧された「将軍の孫」は、長男をモデルに制作した、彼の作風とは幾分趣の異なる愛らしい作品である。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)
カテゴリー:作家
マティスとは?【 作家名 】 1869年フランスに生まれる。1954年没する。はじめは法律を学ぶが、まもなく画家を志す。22歳からパリでギュスターヴ・モローの指導を受け始める。この頃、ルオー、マルケ、ピサロらと知り合う。また、ルーヴル美術館で名作の模写を多数行う。1903年のサロン・ドトンヌ設立に参加する。1905年の同展では、ドラン、ヴラマンク、ルオーらと共に、その大胆な色彩と激しい筆致が注目を集め、半ば嘲笑を込めて「フォーヴ」と呼ばれた。1909年にロシアのシチューキン家のために大作〈ダンス〉を、また32年にはアメリカのバーンズ財団のために壁画〈ダンス〉を制作するなど、各地で活躍する。また1921年からは、パリとニースを往復する生活を送る。1940年のパリ陥落の後、ブラジルの渡航を試みるものの南仏に留まる。戦後も、切り絵、挿絵本、タピスリーなど幅広い活動を続け、特に南仏ヴァンスの礼拝堂の装飾は、彼の才能の集大成と言われる。20世紀美術においてピカソと匹敵する成果を残した一人といえるだろう。 |
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