ぐるぐるアートワード
データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。
ぐるぐるもくじ


原勝郎



原菊太郎



原健



原丹橋



原鵬雲







ハルス



ハルトフ



春日蜿々(白梅)



ハロルドジェニングス



版画集『大鴉』『大鴉』表紙



版画集『大鴉』胸像の上の大鴉−「パラスの像へと降り立った……」



版画集『大鴉』飛翔する大鴉:書票



版画集『大鴉』窓辺にて−「ここに私は鎧戸を開け放った……」



版画集『大鴉』椅子−「床の上に漂いつつ横たわるその影……」



版画集『大鴉』ランプの下で−「嘗て物寂しい真夜中に……」



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉1. フィリポ 邊梨保の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉10. タダイ 多駄伊の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉11. ヤコブ 也胡武の柵



版画集〈耶蘇十二使徒板画柵(不来方頌、大恩世主十二使徒板画鏡柵)〉12. シモン 指聞の柵


<前 (119/186ページ) 次>

●もくじのさくいん

    

    

記事カテゴリ

 すべて

 作家(1701)

 作品(1851)

 美術用語(163)

 その他(1)


たかむら こうたろう

高村光太郎

1883年高村光雲の長男として、東京に生まれる。1902年東京美術学校彫刻科を卒業し、研究科に残り、05年には西洋画科に移る。1906年渡米し、アートスチューデンツ・リーグに学ぶ。このころ荻原守衛を知る。1909年にはロンドン、パリを経て帰国し、岸田劉生らとフューザン会を結成する。1914年長沼智恵子と結婚。このころより彫刻に専念する。1916年「ロダンの言葉」翻訳刊行。1945年空襲によりアトリエを焼失し、岩手県花巻に疎開する。1947年帝国美術院会員に推挙されるが辞退。1953年記念碑「みちのく」が十和田湖畔に完成する。同年日本芸術院会員に推挙されるが辞退。1956年東京の中西利雄のアトリエで死去。彫刻家、画家、詩人であり、また評論家としても活躍した光太郎は、西洋の美術理論・思想を翻訳して日本に紹介し、日本の近代美術の理論面を支える役割を果たした。ロダンが制作した数多くの手や腕が完成作のための一部分であったのに対し、光太郎はそれだけで完結した作品とみなしていた。「手」は仏像の手印に興味を持っていたころの作品で、自分の手を見ながら作ったといわれている。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)


カテゴリー:作家
  いまクリックまたは、検索したキーワードの解説

パピエ・コレとは?【 美術用語 】

貼り紙のことで、装飾紙の切片を画面に貼付する技法。分析的キュビスムから総合的キュビスムに移行し始めた1911,12年頃、ピカソブラックが用い始めた。キュビスムが分析的段階に至って抽象的な線の要素に解体した画面に現実感と日常性を回復させるため、新聞紙、切符、模様紙、レッテル、さらに羽毛、砂、針金などを貼りつけ、新しい造形効果と物体感を導入した。20世紀絵画におけるオブジェの意識の形成過程にとって重要な契機をなした技法である。のちにダダシュルレアリスムコラージュに発展した。コラージュは、貼りつけることを意味し、マックス・エルンストをはじめとするシュルレアリスムの作家たちが1920年代からよく利用した。本来相応関係のない別々のさまざまな「もの」を、最初の目的とはまったく別のやり方で結びつけ、異様な美やユーモアやロマネスク的な領域を絵画に導入した。現実の多様性を画面にとり込むための有力な手段のひとつである。

  画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。

キーワード検索




けんさくけっか

キーワード

パピエ・コレ

キーワードを含む記事
5件見つかりました。

  ファン・グリス

  コラージュ

  パピエ・コレ

  百頭女

  アンリ・ローランス


<前   次>

徳島県立近代美術館2006