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たかた ひろあつ 高田博厚
1900年石川県七尾に生まれる。1918年上京し、独学で絵を学ぶ。高村光太郎、岸田劉生を知る。1919年東京外国語大学イタリア語科に入学、21年同校中退。1922年「ミケランジェロ伝」を翻訳出版する。このころより光太郎に彫刻を学ぶ。1929年国画会展に出品。1931年渡仏し、サロン・デ・ザンデパンダンに出品する。1937年パリ日本美術家協会を設立する。1957年滞仏中の作品を全部壊して帰国、62年新制作協会会員となる。1964年東京芸術大学講師となる。1987年鎌倉で死去。1931年制作の「フーロン夫人の像」のモデルであるフーロン夫人は、渡仏当初に知り合いになった友人で、いかにもフランス人らしい顔なので作ってみたかったと述べている。荒々しい肉付けで、内部からほとばしる生命感を表出しているこの作品には、ロダンからの明らかな影響が見てとれる。26年間の滞仏中のロダン、ブールデル、マイヨールら近代彫刻についての研究を通じ、彫刻についての思索を深め、理論に裏打ちされた、知的で詩情ある作風を作り上げた。滞仏中からヨーロッパの美術動向を日本に伝える評論活動を行なっており、著作も多数ある。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)
カテゴリー:作家
ブラックモンとは?【 作家名 】 パリに生まれたブラックモンは、日本美術の影響を受けた最初の西欧の芸術家と考えられている。鳥と花が描かれた版画の劇的な構図の効果や、ルソーの食器セット(1866年)のデザインに、ジャポニスムの影響が現れており、おおむね北斎の絵本類から着想を得たものである。ジャングラール協会という日本美術の研究を唱道する芸術家、批評家の集団の創立メンバーとして1860年代半ば頃、毎月会合を開き、フィリップ・ビュルティ、ザカリ・アストリュック、アンリ・ファンタン=ラトゥール、ジュール・ジャックマール、M・L・ソロン、アルフォンス・イルシュらと日本美術について語りあった。1874年に日本の多色刷木版画を真似た最初の多色刷エッチングを制作した。多くの画家や版画家との交友を通して日本美術の喧に努め、テオドール・ルソー、オーギュスト・ルペール、アルベール・ベナールら多くの画家にエッチングを教えた。1889年、アンリ・ゲラールやフィリップ・ビュルティと共に画家=版画家協会年次展覧会創立に貢献した。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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