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しんれふ 1-12ごう 1927ねん 1-12ごう 1928ねん 新レフ 1-12号(1927年)、1-12号(1928年) 作家名:ウラジミール・マヤコフスキー ウラジミール・マヤコフスキー編 アレクサンドル・ロドチェンコ装丁。「レフ」はモスクワで発行された芸術左翼戦線の雑誌。一九一七年のロシアでの十月革命以後、アーティストたちは、革命との間で緊張をはらみながらも、新しく到来する世界に期待する。そこで発行された「レフ」誌は、既成概念を打ち壊してきたアヴァンギャルド運動の延長上でユートピアを目指した。一九二三年の二号、三号は、いずれもロドチェンコのモンタージュ写真が表紙を飾る。様々な写真を一枚に編集することによって生まれる斬新な写真は、新国家建設への夢を視覚化したイメージであったに違いない。一九二五年、パリの装飾博覧会では、ロシア・アヴァンギャルドが大きな注目を集めた。また、リシツキーの〈声のために〉が作られたのも、ちょうどこんな熱気あふれる時期である。しかし、一九二四年のレーニンの死、続くスターリンの独裁と徐々に時代は変わる。「レフ」に集まったアヴァンギャルドたちのモダンアートはブルジョア的と見なされ、リアリズムを奨励する文化統制の中で排斥されていく。「レフ」は一九二五年に廃刊され、一九二七年に「新レフ」誌として衣替えするが、翌年には廃刊。雑誌というメディアは、芸術活動の拠点となり、表現のメディアともなる。そして、すぐれた情報伝達性の故に、武器となり、同時に攻撃対象ともなる。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年)制作年:1927-28年刊 技 法:雑誌
カテゴリー:作品
円山応挙とは?【 作家名 】 丹波国穴太村(現京都府亀岡市)に生まれる。通称は、岩次郎、左源太、主水。仲均、夏雲、仙嶺とも号したが、明和3年(1766)応挙と改め、晩年まで落款などに用いた。15歳頃、京都に出て鶴沢派の石田幽汀に師事。生活のため、眼鏡絵の制作を行い、奥行きのある表現を獲得。その後、自然を写生の態度で捉えた〈雪松図〉などの表現、日本や中国の伝統と写生との融和をはかった装飾的表現を生み出す。円満院、三井家、宮中などの庇護を受け、多くの門人とともに障壁画を制作。最晩年の〈保津川図屏風〉が画業を集大成した作品とされている。彼の表現は、円山四条派という画派を形成して広がり、明治に至るまで影響をおよぼした。近代の京都画壇にとどまらず近代「日本画」をつくりだす重要な要素となった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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