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ばうはうす だい2かん1ごう 2-3がっぺいごう 4ごう バウハウス 第2巻1号、2/3合併号、4号
ヴァルター・グロピウス、ラースロー・モホリ・ナギ共編。機関誌。一九一九年に造形教育機関として設立され、モダン・デザインを牽引したバウハウス。その機関紙である。グロピウス、モホリ=ナギを始め,カンディンスキー、クレーなどの教師たち、外部からはガボやコルビュジェらの寄稿を得ている。雑誌の作り自体は、ヘルベルト・バイヤーの考案による、太字が特徴的なバウハウスのロゴマークが印象的であるほかは、オーソドックスで簡素な印刷物である。バウハウスの理念をその都度確認し、関係者に対する求心力を保つ上で、機関紙としての重要な使命を担っていたのであろう。バウハウス叢書と並んで、デッサウ時代のバウハウスにおける印刷工房が残した成果である。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年)
カテゴリー:作品
帝展とは?【 美術用語 】 文部大臣の管理下に設けられた帝国美術院によって、1919年から35年まで開催された美術展覧会。1907年から文部省美術展覧会(文展)が開かれたが、次第に二科会、日本美術院、国画創作協会など在野の有力団体の活動が活発化したのに対して、文展にはアカデミズムの弊害が目立つようになった。その対応策として文展創設以来審査にあたってきた老練作家を帝国美術院会員とし、比較的若い世代を審査員に起用することで今までの文展に活気を吹き込もうとした。この改革は一定の成果をあげたが、1935年在野有力作家の吸収を目的として文相松田源治によって帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。 |
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