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ひゃくとうじょ 百頭女
マックス・エルンスト。エルンストがコラージュ技法を始めたのが一九一九年。「既製の書物の図版を随意に切りとって貼りあわせるこ作業から、印刷可能な絵画作品をつくりだすこと」(巌谷國士『百頭女』1996年河出文庫)。コラージュは、ピカソのパピエ・コレ(貼り紙)やロドチェンコのフォトモンタージュなどとも呼応しながら、新しい絵画世界を生み出す手法として、今に生きている。〈百頭女〉はエルンストのコラージュ作品をコロタイプで刷ったものに、詩句のような物語がついている小説である。それらのコラージュは物語に即した説明図などではない。様々なイメージと言葉が切り貼りされたこの物語から、読者はそれそれの幻想的な物語を読みとることができる。コラージュは美術の世界に革新をもたらしたのみならず、文学、小説の新しい地平も切りひらいたのだ。百頭(サン・テート、CENT te^tes)は無頭(サン・テートsans te^tes)の意味をはらんでいる。多くの作者/読者が存在しうると同時に、特定の作者/読者は存在しないのである。〈百頭女〉は、〈カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢〉(一九三〇年)、〈慈善週間〉(一九三四年)とともに、エルンストのコラージュ小説(ロマン)三部作をなしている。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年)
カテゴリー:作品
ホフマンとは?【 作家名 】 1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。 |
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