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けいほうぽすと 1959-60ねんこくさいしゅるれありすむてんかたろぐ 警報ポスト:1959-60年国際シュルレアリスム展カタログ
アンドレ・ブルトン、マルセル・デュシャン共編。一九二〇年代から三〇年代にかけて世界を席巻したシュルレアリスムも、第二次世界大戦が始まり一九四〇年代になると、急速にその勢いが衰え始める。それは、パリでは革命よりもレジスタンス運動が若者の関心を引き、そして多くのモダン・アーティストたちがアメリカに亡命していった時期と符合する。一九四二年、ニューヨークで、亡命シュルレアリストたちを総動員し、大富豪ペギー・グッゲンハイムの援助で開かれた大規模なシュルレアリスムの展覧会「ファースト・ペーパーズ・オブ・シュルレアリスム」展において、すでにその兆候は見えている。同時代的に先鋭的なアート・シーンを牽引したシュルレアリスムは、すでに回顧され、評価される時期が始まっていた。そんな中、戦争が終わりパリに戻ったアンドレ・ブルトンは、アメリカにとどまっていたデュシャンの協力を得て一九四七年にパリのマーグ画廊で「国際シュルレアリスム展」を開催する。これは大盛況であったが、シュルレアリスムがその時代に生きていることを示した、ほとんど最後の大イベントであった。その後、一九五九年、六一年、六五年などにも国際展が開かれたが、六六年のブルトンの死によって、その激しい道のりは求心力を持つ芸術運動としての終焉を迎える。ここに出品するのは、一九四七年と五九年の国際シュルレアリスム展のカタログである。いずれもデュシャンの気の利いたアイデアが見どころである。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年)
カテゴリー:作品
アクアチントとは?【 美術用語 】 版画技法。銅版画は、凹版を製版する技法によって直刻法と酸腐蝕法に大別できるが、これは後者の内の一つ。まず銅板に粉末状のグラウンド(防蝕剤)を粗くまき熱して付着させ、その上に液状のグラウンドで描画する。これを酸腐蝕させると、描画部は残り、その背景には網目状の防蝕層を通過した酸によって徴細な点が刻まれる。グラウンドを除去し凹部にインキをつめプレス機で紙に刷り上げると、描画部は白く、背景には砂目状の徴妙な黒点が表われる。普通白く残したい部分から順に描画を重ね腐蝕を繰り返すので、描かれなかった部分はその度に腐蝕が進み、それを印刷すれば、砂目状の黒い調子が段階的に深まっていくことになる。アクアチントの語源は「水」であり、水彩画のように微妙な濃淡を表現できるという特徴を示している。17世紀前半にオランダで発明されたとされており、18世紀にフランス人ル・プランスによって確立された。同じ腐蝕凹版であるエッチングと併用されることも多い。 |
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