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けいほうぽすと 1959-60ねんこくさいしゅるれありすむてんかたろぐ 警報ポスト:1959-60年国際シュルレアリスム展カタログ
アンドレ・ブルトン、マルセル・デュシャン共編。一九二〇年代から三〇年代にかけて世界を席巻したシュルレアリスムも、第二次世界大戦が始まり一九四〇年代になると、急速にその勢いが衰え始める。それは、パリでは革命よりもレジスタンス運動が若者の関心を引き、そして多くのモダン・アーティストたちがアメリカに亡命していった時期と符合する。一九四二年、ニューヨークで、亡命シュルレアリストたちを総動員し、大富豪ペギー・グッゲンハイムの援助で開かれた大規模なシュルレアリスムの展覧会「ファースト・ペーパーズ・オブ・シュルレアリスム」展において、すでにその兆候は見えている。同時代的に先鋭的なアート・シーンを牽引したシュルレアリスムは、すでに回顧され、評価される時期が始まっていた。そんな中、戦争が終わりパリに戻ったアンドレ・ブルトンは、アメリカにとどまっていたデュシャンの協力を得て一九四七年にパリのマーグ画廊で「国際シュルレアリスム展」を開催する。これは大盛況であったが、シュルレアリスムがその時代に生きていることを示した、ほとんど最後の大イベントであった。その後、一九五九年、六一年、六五年などにも国際展が開かれたが、六六年のブルトンの死によって、その激しい道のりは求心力を持つ芸術運動としての終焉を迎える。ここに出品するのは、一九四七年と五九年の国際シュルレアリスム展のカタログである。いずれもデュシャンの気の利いたアイデアが見どころである。(「本と美術−20世紀の挿絵本からアーティスツ・ブックスまで」図録 2002年)
カテゴリー:作品
浅井忠とは?【 作家名 】 東京都に生まれる。1863年父の死去のため家督を相続し佐倉に帰郷。翌年佐倉藩の絵氏黒沼槐山に花鳥画を学ぶ。1873年上京し、箕作塾で英学を学び、1876年国沢新九郎の彰技堂に入門。初めて西洋画の初歩を学び、工部美術学校に入学してフォンタージに師事する。1878年フォンタネージの帰国後、後任のフェレッティを不満として美術学校を退学。1899年明治美術界を創立。1898年東京美術学校教授となる。1900年渡仏し、パリ近郊のグレーなどに滞在。1902年パリを立ち、イタリア、ドイツ、イギリスを巡歴して帰国。東京美術学校を辞し、京都工芸学校教授に就任して京都に移る。1903年自宅に聖護院洋画研究所を創設。1906年関西美術院を開設し、初代院長となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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