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ふなこし やすたけ 舟越保武
1912年岩手県に生まれる。2002年没する。1934年東京美術学校彫刻科卒業。新制作協会彫刻部創立に参加し、会員となる。1941年松本竣介と二人展開催、62年長崎26殉教者記念像完成、同年第5回高村光太郎大賞受賞。1967年東京芸術大学教授となる。1972年第3回中原悌二郎賞受賞、73年ローマ法王より大聖グレゴリオ騎士団長賞受賞、78年芸術選奨文部大臣賞受賞。1980年東京芸術大学を退官、翌年多摩美術大学教授となる。1983年「巨岩と花びら」で日本エッセイストクラブ賞受賞。1988年舟越保武展開催(札幌芸術の森野外美術館他)。副題を「切支丹武士の最期」と名付けられた「原の城」は、天草の乱でキリシタンと農民3万7千人が一人残らず全滅した原の城跡を訪れた時に着想した。うつろな表情をした武士が、上半身をやや前屈みして立ち尽くしている姿は、クリスチャンとしての舟越の宗教的な情感の表出にほかならない。古典主義を基調とする、端正で静謐な表現を通して、精神の高みを提示する舟越は本質的には宗教的な作家であり、「原の城」はそれをよく示している代表作のひとつである。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)
カテゴリー:作家
キルヒナーとは?【 作家名 】 ウィーンでエレガントな有閑マダムや高級娼婦を描く絵描きとして出発、その後、1900年頃にパリへ移住、肖像画家として活動するほか、雑誌(特に「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」)や単行本の挿絵を描いた。一時ロンドンにも滞在し、そこで「ザ・スケッチ」の挿画を描いていた。世界大戦勃発後、彼はニューヨークへ行き、主に女性を描く肖像画家として活動した。キルヒナーが知られているのは、サロン、バー、ナイトカフェなどにたむろして、一種エロティックな仕草をしたがる刺激的な女性たちの絵描きとしてであり(「玩具」、「サルタンの妃」、「青春」、「引っ張られるアモール」)、また、‘キルヒナー・ガール’の呼び名でポピュラーになったモンマルトルのやくざ女の代弁者としてである。1904年、彼はミュンヒェン水晶宮の展覧会に「ウェスタの処女」を出品した。フランス美術協会のパリ展には、1906年、婦人肖像画、1913年、「釈放」、1914年、「御託宣」を出品した。また、パリのユーモリスト展にも多数の水彩画を出品した。彼の水彩画のカラー複製は、特にマックス・ヘルツベルク書店(ウィーン)から出版されている。 |
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