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あーとりばいばるいんおーすとりあ 「アート・リバイバル・イン・オーストリア」 作家名:資料(ウィーンの夢と憧れ−世紀末のグラフィック・アート) チャールズ・ホーム編。オリジナルクロス装、一部彩色、解説付。ヨーゼフ・ホフマン、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ、コロマン・モーザー、グスタフ・クリムトらの図版。ザ・ステューディオ誌刊(ロンドン)。制作年:1906年 技 法:本
カテゴリー:作品
ウジェーヌ・ドラートルとは?【 作家名 】 版画家で出版業者の父、オーギュスト・ドラートルの息子として生まれた彼は、当時の最も優れたグラフィック・アーティストたちの仕事ぶりを見ながら、家業をおぼえていった。彼は自分が住み、仕事をしていたモンマルトルという場所の土地柄と活気を好み、版画の制作に活かしている。1890年頃、日本の多色刷版画に刺激されて、多色刷エッチングを試みはじめた。ドラートルはとりわけマクシム・モーフラやリヒャルト・ランフト、スタンランらにエッチングを教え、19世紀末に数多くのオリジナル版画を印刷した。1896年、S・ビングのギャラリー「アール・ヌーヴォー」に13点の版画を出品したが、おそらく彼の日本美術コレクションはビングを通じて作り上げられたものと思われる。1899年、多色刷版画協会の一員となり、その年次展に出品された版画の多くを印刷した。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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