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よう かんじ 陽咸二
1898年東京に生まれる。1915年小倉右一郎に師事。1918年第12回文展に「老婆」が入選。1922年第4回帝展で「壮者」が特選受賞。1926年構造社に参加、29年会員となる。1935年新帝展無鑑査となる。東京で死去。初めは工芸を志し、牙彫を学ぶが、後に彫刻に転じる。24歳の時帝展で特選となり、将来を嘱望される。斉藤素巌が日名子(ひなこ)実三らと結成した構造社は、当時唯一の彫刻を主体とした団体で、陽はこの中で自由な制作態度を身につけた。様々な美術様式から影響を受けた彼は、寡作でありながらバラエティに富んだ作品を残したが、「ある休職将軍の顔」はキュビスムへの傾倒を示す作例である。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)
カテゴリー:作家
藤井浩祐とは?【 作家名 】 1882年東京神田に生まれる。唐木細工師を父として生まれた藤井は、美術学校入学前に不同舎に通い、満谷国四郎のもとでデッサンを学んだ。1907年、東京美術学校彫刻科を卒業。同年第1回文展に「狩」が入選。1909年第3回文展で「疲労」が褒状を受け、以後受賞を重ねる。1916年日本美術院同人に推挙されて出品し、18年評議員となるが、36年に退会する。また1936年には帝国美術院会員となり、37年帝国芸術院会員となる。同年第1回新文展に「梳髪」を出品。1958年熱海で死去。大正時代の日本の彫刻界全体の関心がブールデルやマイヨールに移行したのと同様に、初めはロダンの感化を受けていた彼も、マイヨールに傾倒していった。「鏡」は、マイヨールへの志向を示した佳作のひとつ。晩年は、日展の重鎮として活躍した。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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