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でぃくう゛ぇれ だい5かん 「ディ・クヴェレ」第5巻/(自然界の諸形態) 作家名:資料(ウィーンの夢と憧れ−世紀末のグラフィック・アート) マルティン・ゲルラッハ編。カラーグラビア印刷、オリジナルクロス装ポートフォリオ。大学教官フーゴ・ヒンターベルガーが顕微鏡拡大、図版71点、写真100葉以上、写真の手際よい配列から、M.ゲルラッハが作品の芸術的構成の仕事をウィーン分離派の作家の一人に委託したと思われる。それは、その直前に同じシリーズで『平面装飾』を発表したばかりにコロマン・モーザーであったと推測できる。この魅惑的な作品−特に自然の小宇宙を写したその多種多様さにより−が分離派の作家たちに新鮮な刺激を与え得たことは、疑いない。マルティン・ゲルラッハ出版(ウィーン/ライプツィッヒ)。制作年:1901年頃 技 法:本
カテゴリー:作品
浅井忠とは?【 作家名 】 東京都に生まれる。1863年父の死去のため家督を相続し佐倉に帰郷。翌年佐倉藩の絵氏黒沼槐山に花鳥画を学ぶ。1873年上京し、箕作塾で英学を学び、1876年国沢新九郎の彰技堂に入門。初めて西洋画の初歩を学び、工部美術学校に入学してフォンタージに師事する。1878年フォンタネージの帰国後、後任のフェレッティを不満として美術学校を退学。1899年明治美術界を創立。1898年東京美術学校教授となる。1900年渡仏し、パリ近郊のグレーなどに滞在。1902年パリを立ち、イタリア、ドイツ、イギリスを巡歴して帰国。東京美術学校を辞し、京都工芸学校教授に就任して京都に移る。1903年自宅に聖護院洋画研究所を創設。1906年関西美術院を開設し、初代院長となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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