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こんの ひさし 昆野恒
1915年宮城県に生まれる。1939年東京美術学校彫刻科卒業。1953年抽象と幻想展に出品。1955年第3回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品。1965年第1回現代日本彫刻展に招待出品。1985年死去。1953年に昆野が作品を発表した「抽象と幻想」展は、戦前より連綿と続く抽象への傾向を紹介したもので、昆野自身も、もちろん戦前より志向していた抽象傾向にある作品を華々しく出品した。昆野は最初、アルプやムーアをよく研究し、その影響の色濃い作品を作っていたが、次第に自分のものとしてこなし、素直なあたたかい抽象でその足跡を彫刻史上に残した。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)
カテゴリー:作家
脂派とは?【 美術用語 】 一般に明治美術会系の画家の画面が脂っぽい印象を与えることから、世間がこの系統の作家と作品を揶揄して用いた名称。紫派と呼ばれる黒田清輝を中心として形成された外光派との対比で用いられた。ほかに旧派、北派、変則派とも呼ぶ。1893年ラファエル・コランにサロン風の外光描写を学んだ黒田が帰国するまで、日本の画家は外光描写を知らず褐色を基調として明暗のコントラストを鳶色あるいは黒で表現したため、画面は暗く脂っぽいものとならざるを得なかった。それに対して明るく感覚的な黒田の外光表現は清新な感動をもって若い画家に迎えられ、やがて当時唯一の官展であった文部省美術展(文展)の画風を支配していった。ジャーナリズムは両者の対立を脂派と紫派の抗争とあおったが脂派は画壇の片隅に追いやられていった。 |
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