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きむら けんたろう 木村賢太郎
1928年東京に生まれる。1952年東京芸術大学彫金科卒業。1955年第5回モダンアート展で新人賞受賞、今日の新人展(神奈川県立近代美術館)で大原美術館児島虎次郎記念賞受賞、60年第4回現代日本美術展優秀賞受賞。1965年第8回日本国際美術展最優秀賞受賞、67年第1回インド・トリエンナーレ展で金の楯グランプリ受賞、74年第5回中原悌二郎優秀賞受賞、76年長野市野外彫刻賞受賞。1955年のモダンアート展への木村の出品こそが、戦後日本の彫刻界における新しい世代の登場といってよいだろう。石彫による抽象形態は、当時の彫刻の世界にあってはたいへんに斬新なものであった。歴史を内包する石と現代を象徴する抽象形態のもつ生命感が融和した個性的な作風で、木村は新しい空間を演出したといえる。
カテゴリー:作家
平櫛田中とは?【 作家名 】 1872年岡山県井原市に生まれる。1893年大阪で人形師・彫刻家の中谷省古に木彫を学ぶ。1897年上京し、高村光雲に師事する。1902年新海竹太郎、米原雲海、山崎朝雲らが結成した三々会の会員となる。1907年第1回文展に「姉ごころ」を出品。また、日本彫刻会の結成に参加する。翌1908年には、日本彫刻会第1回展に「活人箭」を出品する。1914年日本美術院の再興に参加し、第1回展に出品、同人となる。1937年帝国芸術院会員に、54年文化功労者になり、62年には文化勲章を受章する。1979年東京都小平市で死去。「活人箭」は禾山和尚の臨済録提唱の中からとったテーマ。鹿を追っていた猟師がわけあって僧門に入り、後に石鞏(せきぎょう)禅師となり、やってくる雲水に矢をつきつけながら問答をした。皆答えられなかったが、三平という雲水が胸元を広げて、「活人箭か、殺人箭か」と答えた。この作品は、石鞏が矢をつがえている場面で、その描写力と造形にひそむ厳しい精神性が高く評価された。また、釣糸を垂れる太公望を表わした「釣隠」には、田中独特の彩色がほどこされている。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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