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きのうしゅぎ 機能主義
建築およびその他のデザインは、その実用性の分析と総合に即して設計すべきであり、単なる造型的な遊戯は一切排除すべきであるとする主張。旧来の様式との闘争のための理論として1920年代、30年代の近代建築運動において支配的な思潮となり、近代建築の国際的普及を助けた。この主張はゼンパーやオットー・ヴァーグナーの「芸術はただ必要のみによって支配される」という思想にはじまり、サリヴァンの「形態は機能に従う」という主張、ロースの無装飾主義などで補強され、近代建築設計の指導原理とみなされたが、同時に「機能主義そのものが近代美を生みだす」という大きな誤解を普及させ、一般建築のデザインの質を低下させるとともに、しばしば経済主義にすりかえられる弊害も生じた。
カテゴリー:美術用語
川端玉章とは?【 作家名 】 京都に蒔絵師の子として生まれる。幼名龍之助。晩年は璋翁と号した。はじめ、父から蒔絵の手ほどきを受けるが、中島来章に師事し円山派を学んだ。慶応2年(1866)江戸に出て、覗眼鏡の興行などを経た後、高橋由一、五姓田義松とともにワーグマンから洋画を学ぶ。そして、油絵具で屏風を描いたこともあったという。明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会以降、受賞を重ね、第一回、第二回内国絵画共進会では、受賞作がフェノロサから評価を受ける。明治21年(1888)から、円山派を代表する画家として、東京美術学校で後進の指導にあたった。シカゴ万国博覧会に出品。日本青年絵画協会の結成に尽力した他、川端画学校校長、帝室技芸員、文展での審査員などを歴任した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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