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しゅぷれまてぃずむ シュプレマティズム
絶対主義と訳される。ロシアの芸術家マレーヴィッチが、ソビエト革命前後に提唱した抽象絵画の方法と哲学のこと。1915年にモスクワで刊行された「キュビスムからシュプレマティズムへ」が最初の宣言だが、バウハウス叢書の「非対象の世界」が理念の集大成であると言われている。絵画の再現性を否定し、純粋な感性を絶対のものとする非対象絵画を目指した。シュプレマティズムの抽象表現は、矩形・円・十字・三角形などの幾何学的要素から独自に画面を構築するタイプの抽象に分類され、自然の外観の分折や破壊によって形態を単純化し抽象的画面をつくり出す方向や、人間の情動を不定形な形態に込めるといったタイプの抽象画とは区別される。ロシアの前衛的美術のみならず、ヨーロッパの構成主義に与えた影響は大きい。
カテゴリー:美術用語
橋本雅邦とは?【 作家名 】 石見浜田藩主松平周防守の御用絵師、橋本養邦の子として、江戸に生まれる。養邦は、木挽町狩野家の狩野養信門下であった。幼名千太郎。狩野養信、雅信に入門。同門の狩野芳崖の帰郷後、弟子頭(塾頭)となった。万延元年(1860)に独立するが、幕末から明治維新の混乱期は、生活が困窮し、明治4年(1871)海軍兵学校に出仕。足かけ15年勤務する。明治15年(1882)頃から、内国絵画共進会などで受賞を重ね、フェノロサや岡倉天心の評価を得、鑑画会に参加。東京美術学校教授となり、天心のもとで、横山大観、下村観山、菱田春草などを育てる。明治23年(1890)帝室技芸員。明治31年(1898)には、天心に殉じて美術学校を退職し、日本美術院の創立に参加。主幹として院の運営をつとめた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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