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ゆはら かずお 湯原和夫
1930年東京に生まれる。1951年東京芸術大学入学、57年同校彫刻専攻科修了。1958年第22回新制作展で新作家賞受賞。1963年渡仏、65年第4回パリ・ビエンナーレに出品、67年第5回グッゲンハイム国際彫刻展に出品、69年第10回サンパウロ・ビエンナーレに出品。同年帰国するが、以後しばしば渡欧し、海外で作品を発表する。1972年第3回中原悌二郎賞優秀賞受賞。1982年湯原和夫展開催(神奈川県立近代美術館)。1988年湯原和夫展開催(三重県立美術館)。初期には表現主義的な人物像を制作していたが、その形態を単純化してきた結果、「立っているトルソが少しずつ矩形のフォルムに近づいてきた」のだという。「無題No.4−66」の磨きぬかれた表面は、そこに映る周囲の景色までを作品の一部としている。また、「不快な門」に代表されるアーチ型の作品は、都市空間、建築など環境をイメージさせ、造形に対する作者の姿勢を明らかにしている。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)
カテゴリー:作家
クリムトとは?【 作家名 】 1862年ウィーンに生まれる。1876年に奨学金を得てオーストリア芸術産業美術館付属の工芸学校に入学、7年間同校に学ぶ。1883年、弟エルンスト、同窓のF.マッチュと共に美術家協会を設立し、ブルク劇場やウィーン美術史美術館など多くの装飾画を手掛ける。この時期の作品はいまだアカデミックな画風で描かれており、ブルク劇場のフレスコ画の制作によって勲章を授けられたが、1897年にウィーン分離派を結成し、その初代会長となると、アール・ヌーヴォー様式を大幅に取り入れた独自の様式を成熟させていった。1903年にはウィーン工房の設立に協力し、翌年、ブリュッセルのストックレー邸の食堂のためにモザイクのフリーズを制作し始める。この間、ウィーン大学の壁画やマックス・クリンガー展のための《ベートーヴェン・フリーズ》が賛否の渦を巻き起こす。1905年分離派を脱退し、翌年オーストリア美術家連盟を結成、1908年の「クンストシャウ」に出品した《接吻》が国家買上げとなる。第9回ベネチア・ビエンナーレ(1910年)で「クリムトの部屋」が設けられたり、1911年のローマ国際美術展で最優秀賞を獲得したりするなど、ヨーロッパ美術界で重きをなしていった。1917年、ウィーンとミュンヒェンの造形芸術アカデミーがクリムトを名誉会員に迎る。1918年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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