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おだ じょう 小田襄
1936年東京に生まれる。2004年没。1960年東京芸術大学彫刻科卒業、新制作展で新作家賞受賞、62年同校彫刻専攻科修了。1963年第1回全日本野外彫刻コンクール展で宇部市野外彫刻美術館賞受賞。1965年第1回現代日本彫刻展で宇部市野外彫刻美術館賞受賞。以後も毎日新聞社賞や須磨離宮公園賞を受賞。1974年第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で神戸公園協会賞受賞。以後も国立国際美術館賞、朝日新聞社賞を受賞。1975年長野市野外彫刻賞受賞、77年第8回中原悌二郎賞優秀賞受賞。1979年第1回ヘンリー・ムーア大賞優秀賞受賞、84年第9回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で大賞受賞。小田の作品は、ステンレス・スチールなどを素材にした幾何学的な形態の構成を指向している。つややかな表面の仕上げと純粋な幾何学形態への造形意志が簡潔で、明るい存在感を空間のなかで示している。素材の持つ質感を十分に活かした作品であるといってよい。点や線、面から量が生まれ、空間の中に存在する量塊が想像力によって普遍的な存在となることの面白味を作家は追い求めている。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)
カテゴリー:作家
ヴァーグナーとは?【 作家名 】 1857年から1860年、ウィーン工科大学に学び、1860年、王立のベルリン建築大学でカール・フェルディナント・ブッセに師事。1861年から1963年、ウィーン美術アカデミーで、アウグスト・ジカルド・フォン・ジカルズブルグとエドゥアルド・ファン・デア・ニュルに師事。1894年、キュンストラーハウスのインターナショナル展覧会での建築プロジェクト展。1895年から1913年、ウィーン美術アカデミー教授。1896年、著書「近代建築(シュロル社、ウィーン刊)」が出版される。1895年から1902年、市民鉄道の駅舎、及びドナウ運河の航路の建設を指揮した。1898年から1900年、ウィーンの家並みに沿う家々の建築。ウィーン分離派に加盟したばかリではあったが、1898年には第2回分離派展の装飾を行っている。彼は、様々な展覧会に出品したが、とりわけフランツ・ヨゼフ・クァイのためのデザインや家具、1905年のシュタインホフ教会の為のデザインなどを、展覧会に出品した。1898年から1900年、「ヴェル・サクルム」への絵画作品の提供。彼自身が表紙カバーをデザインした第2年次の第8号は、特別号として彼に献呈されている。1900年、「職業の中の芸術」に寄稿。1904年から1906年、ウィーン郵便貯金局の建築、1905年から1907年、シュタインホフの教会の建築。1905年、クリムト・グループと共にウィーン分離派を脱退。1908年から1909年、クンストシャウに参加。1909年、「大都市」を出版。1912年、デューラーガッセの賃貸住宅の建築、ここにはヨーゼフ・ホフマンの工房も入居した。友人グスタフ・クリムトと共に、新しく設立されたオーストリア芸術家同盟の副会長となる。1914年、「近代建築」の四度目の改訂版である、「同世代の建築芸術」を出版。 |
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