一般に明治美術会系の画家の画面が脂っぽい印象を与えることから、世間がこの系統の作家と作品を揶揄して用いた名称。
紫派と呼ばれる黒田清輝を中心として形成された
外光派との対比で用いられた。ほかに旧派、北派、変則派とも呼ぶ。1893年
ラファエル・コランにサロン風の外光描写を学んだ黒田が帰国するまで、日本の画家は外光描写を知らず褐色を基調として明暗のコントラストを鳶色あるいは黒で表現したため、画面は暗く脂っぽいものとならざるを得なかった。それに対して明るく感覚的な黒田の外光表現は清新な感動をもって若い画家に迎えられ、やがて当時唯一の官展であった文部省美術展(
文展)の画風を支配していった。
ジャーナリズムは両者の対立を
脂派と
紫派の抗争とあおったが
脂派は画壇の片隅に追いやられていった。