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やには 脂派
一般に明治美術会系の画家の画面が脂っぽい印象を与えることから、世間がこの系統の作家と作品を揶揄して用いた名称。紫派と呼ばれる黒田清輝を中心として形成された外光派との対比で用いられた。ほかに旧派、北派、変則派とも呼ぶ。1893年ラファエル・コランにサロン風の外光描写を学んだ黒田が帰国するまで、日本の画家は外光描写を知らず褐色を基調として明暗のコントラストを鳶色あるいは黒で表現したため、画面は暗く脂っぽいものとならざるを得なかった。それに対して明るく感覚的な黒田の外光表現は清新な感動をもって若い画家に迎えられ、やがて当時唯一の官展であった文部省美術展(文展)の画風を支配していった。ジャーナリズムは両者の対立を脂派と紫派の抗争とあおったが脂派は画壇の片隅に追いやられていった。
カテゴリー:美術用語
横山大観とは?【 作家名 】 1868年、常陸国(ひたちのくに、現・茨城県)に生まれる。1958年没する。幼名秀蔵、秀松、のちに秀麿。旧姓は酒井。結城正明に学んだ後、東京美術学校(現・東京藝術大学)に1期生として入学。橋本雅邦、岡倉天心の指導を受ける。卒業後、東京美術学校助教授となるが、天心に殉じて辞職し、日本美術院の創立に参加。正員、評議員となる。美術院の茨城県五浦への移転を経て、文展(文部省美術展覧会)が開催されると審査員もつとめた。天心の没後は、文展を離れ、日本美術院を再興。一貫して指導的立場にあった。帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員などを歴任し、第1回文化勲章を受章。近代の日本画を代表する画家といえる。 |
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