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アートワードの使い方
徳島県立近代美術館データベースから、解説などの読み物を集めたページです。パブロ・ピカソ、パウル・クレー、ヘンリー・ムーアなど当館を代表する作品の解説記事や作家略歴、キュビズム、エッチングといった美術用語もあります。記事内のリンク語をクリックすれば、そのキーワードで検索された記事が右側に現れます。記事から記事へたどって、アートワードを楽しんで下さい。
カテゴリー:その他
塩川文麟とは?【 作家名 】 1808年京都に生まれる。1877年没する。生年には異説がある。父は、安井蓮華光院門跡の侍者。字は子温。幼名は隼人。通称図書。はじめ草章と号し、可竹斎などの別号がある。門跡に画技を認められ、岡本豊彦に師事して四条派を学ぶ。弘化2年(1845)に豊彦が没してからは、四条派を率い、明治初期までの京都画壇を代表する画家のひとりとなった。安政年間の御所再建に際して、常御殿などの絵画制作に携わった。明治元年(1868)、中島来章、円山応立、国井応文らと如雲社を結成して、京都の画家たちの結束を深めた。明治9年(1876)フィラデルフィア万国博覧会に出品。門人には、幸野楳嶺がいる。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年、一部加筆有) |
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