![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
たなあみ けいいち 田名網敬一
1936年東京都に生まれる。1960年武蔵野美術大学デザイン科を卒業後、広告代理店の博報堂制作部に入社する。在学中から活動を始め、1962年博報堂を退社後は、グラフィック・デザインの分野だけではなく、オブジェやビデオ、実験映画、アニメーション等様々なメディアを通じて表現の可能性を追及する。1981年胸膜炎によって4か月近い入院生活を送る。退院後は、デザイナーの仕事よりも自由な創作活動に多くの時間をさくようになる。1991年より京都造形芸術大学情報デザイン科教授をつとめる。
カテゴリー:作家
ブリュッケとは?【 美術用語 】 1905年、ドレスデンでキルヒナー、シュミット=ロットルフ、エーリッヒ・ヘッケルらの表現主義的傾向の若いドイツ人画家たちによって創設された団体。1906年にはノルデ、ペヒシュタインが参加している。1910年には、ノルデの作品がヅェツェッシォーンに出品拒否をされたのをきっかけに、自由出品制の展覧会のための新しいグループを作り、「新分離派」と名のりベルリンに移動した。1912年には「青騎士」展に参加したりするが、1913年キルヒナーの書いた文章から意見の相違が生じ、分裂・解散した。「橋」を意味するグループ名は、彼らの作品が未来の芸術への架け橋になってほしいという願いからつけられたものであるが、その信条、目標は明確にされず、既成の古い力に対する反抗に重点がおかれ、ドイツにおける表現主義運動をつくった。このグループの仕事の中では、版画、とくに木版画の復興が評価され、二次元的平面性と、白と黒の対比による力づよい精神表現の可能性を追求し、高めた意義は大きいものがあった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||